は、結局無力かもしれません。せいぜいできることは、お体裁《ていさい》を作るために形をかえでそれを満足させることでしょう。しかし、だからといって、時代の力は軽蔑《けいべつ》はできませんよ。うそを本気でやらせる力もあるんですから。」
「うそを本気で?……それはどういうことです。」
「早い話が、今の時代がそうじゃないですかね。このごろ時局だ時局だと叫《さけ》んでいる人たちはむろんのこと、それにおどらされている人たちも、自分では本気のつもりなんですよ。本気でなくちゃあ、あんな気ちがいじみたまねはまさかできないでしょう。ところで、その本気が、冷静に物事を考え、自分の心をどん底までたたいて見た上での本気かというと、決してそうではありません。たいていは時局のかけ声に刺激《しげき》されて、自分でも気づかないうちに、本心にないことを本気で言ったり、したりしているだけなんです。そうは思いませんか。」
「なるほど、そう言われるとそうですね。ここの塾生たちの中にも、入塾当初には、そんなのがざらにいますよ。」
「その意味で、銀座に行くのは、正直でいいじゃありませんか。少なくとも、うそを本気でやるよりはいいことでしょう。」
「かといって、正直だとほめてやるほどのこともなさそうですね。」
 二人は声をたてて笑った。次郎は、しかし、笑いながら、道江のことでなやんでいる自分が何かあわれなもののように感じられて、いやにさびしかった。
 かれはふと、思い出したように、
「何か用事じゃなかったんですか。」
「ええ、今日はみんなが帰るまでに、風呂《ふろ》をわかしておきたいと思ったもんですから。」
「風呂? 今日は、やすむことになっていたんじゃありませんか。」
 最初の日曜に、風呂当番だけが外出できなくなっては気の毒だというので、みんなの相談でそうきめていたのである。
「ええ、しかし、わかしておいてもいいんでしょう?」
「そりゃあ、むろん、いいどころじゃありませんよ。わかしてくれる人がありさえすれば……」
「じゃあ、ぼく、やっぱりわかしておいてやりましょう。……わくのに何時間ぐらいかかりますかね。ぼく、まだ、ここの風呂のぐあいがわかっていないんですが。」
「時間はまだゆっくりでいいんでしょう。しかし、いったい、どういうわけなんです。風呂なんか……」
「べつにわけなんかありません。ただ、ひまなので、風呂でもわかしておいてやろうかと思っただけなんです。みんなは、今日はほこりをかぶって来るでしょうし、それに、今夜はお国|自慢《じまん》の会をやって遊ぶ予定でしょう。風呂でもあびて、さっぱりしたほうがいいんじゃありませんか。」
 大河無門は、そう言ってにっと笑ったが、すぐ、
「おじゃましました。」
 と、ぴょこりと頭をさげた。そしてのっそり立ちあがると、そのまま室を出て行ってしまった。
 次郎は、ぽかんとして、そのすんぐりしたうしろ姿を見おくっていたが、戸がしまったあとまで、大河のにっと笑った顔が、あざやかに眼に残っていた。その笑顔《えがお》は、こないだの板木《ばんぎ》一件以来、これで二度目だったのである。
 かれは、いつまでもその笑顔にとらわれていた。まんまるな顔の輪郭《りんかく》、近眼鏡のおくにぎらりと光る眼、真赤な厚い唇《くちびる》、剃《そ》りあとの真《ま》っ青《さお》な頬《ほお》の肉、そうしたものが、組みあわさってできあがる大河の笑顔には、一種異様な表情があった。それは、決して冷たい皮肉だとは受け取れなかった。かといって、単なるあたたかい親愛感の表現と受け取るには、その奥《おく》に何かきびしすぎるものが感じられたのである。
 次郎は、その笑顔を思いうかべながら、風呂をわかすことについての大河との問答を心の中でくりかえした。そして、大河が最後に言った言葉まで来ると、われ知らず肩《かた》をすくめ、吐息《といき》をついた。
(やはり、どこか突《つ》きぬけたところのある人だ。ものごとにとらわれない、あの自然さは、ぼくなんかとは、まるで段がちがう。)
 かれは、それからもながいこと、机の上にほおづえをついて、大河の笑顔と言葉との意味を心の中でかみしめていた。かれの臂《ひじ》の下には、恭一から来たはがきがあった。
 と、だしぬけに、窓のそとから、給仕の河瀬《かわせ》の声がきこえた。
「本田さん、朝倉先生がお呼びです。空林庵のほうにおいでくださいって。」
 次郎が窓をあけると、
「どなたかお客さんのようですよ。」
「お客さん?」
 次郎の眼には、つい忘れかけていた恭一と道江の顔が、大河の顔に代わって、やにわに大きく浮《う》かんで来た。
「どんなお客さんだい。」
「大学生のようでしたが。」
「ひとり?」
「いいえ、女の人がいっしょです。」
「そうか、いま来たんかい。」
「ええ、たった今で
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