て、われ知らず眼をひらき、塾生たちの中に大河の顔をさがした。かれは塾生たちの静坐の姿勢を直したあと、朝倉先生の横に斜《なな》め向《む》きにすわっていたので、よく全体が見渡《みわた》せたのである。
大河は第五室の列の一番うしろにすわっていた。しかし、ただ静かに瞑目《めいもく》しているだけで、その顔からは、かれの気持ちがどう動いているかは、すこしもうかがえなかった。
朝倉先生は、それっきり口をつぐんでいる。次郎はいよいよ不安だった。もし先生の話がそれで終わったとすると、大河に対してはむろんのこと、あとでほんとうのことがわかった場合、他の塾生たちに対しても、このままでは決していい結果をもたらさないだろう。
かれは視線を転じて、そっと先生の顔をのぞいてみた。すると、ふしぎなことには、先生のいつもの端然《たんぜん》たる静坐の姿勢がいくらかくずれている。顔をすこし伏《ふ》せ、その眉《まゆ》の間には深いしわさえ見えるのである。次郎は、先生が気分でも悪くなったのではないか、と思った。
先生は、しかし、まもなく顔をまっすぐにした。そして、これまでの激しい調子とはうって代わった、沈《しず》んだ調子で言葉をつづけた。
「だが、考えてみると、なさけないのは決して君らだけではない。こんなことを言っている私自身が、今朝は、君らに対して重大な過失を犯《おか》してしまったようだ。私は、さっき君らを非難して、平気で自分の良心を眠らせている人間だと言った。また、君らの奴隷根性がなさけないとさえ言った。こういう言葉は人間に対する最大の侮辱《ぶじょく》の言葉で、心に愛情をもつものの容易に口にすべきことではない。少くとも同じ屋根の下で、一つ釜《かま》の飯をたべながら、これから共同生活をやっていこうとする人たちの間では、決してとりかわされてはならない言葉なのだ。しかるに、私は、つい、自分の感情にかられて、そんな言葉をつかってしまった。それは、私に忍耐心が欠けていたからだ。いや、君らに対する愛情が、まだ十分でなかったからだ。私は、板木当番の乱暴な打ちかたを非難しながら、自分自身で、それとちっともちがわない過失を犯してしまった。私は、いま、それに気がついて、心から恥じている。同時に、私は、今日の私の言葉が、君らを強制して、盲従《もうじゅう》を強《し》いるような結果にならないことを、心から祈《いの》らずにはいられない。……くれぐれも言っておきたいのは、人間にとって良心の自由をまもるほどたいせつなことはない、ということだ。板木の音であれ、先生の言葉であれ、そのほか、そとから与《あた》えられたどんな刺激《しげき》であれ、それがきびしいから従う、甘《あま》いから軽んずるというのでなく、君ら自身の良心の自由な判断に訴《うった》え、従うべきものには進んで従い、従うべからざるものには断じて従わない、というようであってこそ、君らはほんとうの人間だといえるのだ。私は、愛情と忍耐心が足りないために、つい激しい言葉を使いすぎたが、それも、君らに、あくまでも良心的・自主的に行動してもらいたいと願っていたからのことだ。私は私として十分反省するが、どうか君らにも、私のその気持ちだけはくんでもらいたい。そして、その意味で、私の激しすぎた言葉をよいほうに生かしてもらいたいと思う。――最後に、私は君らとともに、永平寺の小僧さんが、礼拝《らいはい》しながら鐘をついたという、あの敬虔《けいけん》な態度の意味を、もう一度深く味わって、けさの私の話を終わることにしたい。」
みんなは、しずかに眼を見開いた。窓のすりガラスはもう十分明るくなっており、ほのかな紅をさえとかしていた。
だれの顔にも、何かしら、ゆうべとはちがった感情が流れており、互礼《ごれい》をすまして広間を出て行く時のみんなの足音も、これまでになく静粛《せいしゅく》だった。
七時の朝食までには、まだ二十分ほどの時間があり、その間に食事当番は食卓《しょくたく》の準備をやり、そのほかのものは、自由に新聞に目をとおしたり、私用をたしたりするのだった。次郎は、いつもなら、こんな時間にも、できるだけ塾生たちに接触《せっしょく》して、かれらの感想をきいたりするのだったが、今日は、広間を出るとすぐ、塾長室に行き、朝倉先生に向かって、なじるように言った。
「先生は、ぼくのやりそこないを、どうしてあからさまに話してくださらなかったんですか。」
「板木《ばんぎ》のことか。あれは、私が直接見ていたわけではなかったのだからね。」
「しかし、ぼくから先生にそう申しておいたんじゃありませんか。」
「うむ。それはきいた。しかし、私が何もかも知っていたことにすると、君の名前だけでなく、大河の名前も出さなければならなくなるんでね。」
「出してくだすってもいいじゃありませんか。
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