決して深い心だとはいえまい。……もっとも、君らの中には、内心それをいくらか恥じていたものも、おそらく幾人《いくにん》かはあったであろう。気がとがめるといった程度なら、あるいは君らのすべてがそうであったのかもしれない。しかし、それも結局は何の役にもたたなかったのだ。では、なぜ役にたたなかったのか。今、君らに真剣《しんけん》に考えてもらいたいのはこの一点だ。――」
 静かな空気の中を、えぐるような沈黙の数秒が流れたあと、朝倉先生の言葉が沈痛《ちんつう》につづけられた。
「私に言わせると、それは、君らに、ほんとうの意味で自分をたいせつにする心がないからなのだ。言いかえると、君らには、自分で自分をたいせつにする自主性というものがまるでない。さらに言いかえると、君らは多数をたのみ、多数のかげにかくれて、何よりもたいせつな自分の良心を眠らせることに平気な人間なのだ。私は、現在の日本人の大多数がもっている最大の弱点を、君らの今朝の起床の様子でまざまざと見せつけられたような気がして、全く、暗然《あんぜん》とならざるを得なかったのだ。――」
 次郎は、朝倉先生が、開塾最初の朝の訓話《くんわ》で、これほど激《はげ》しい言葉をつかって、真正面から塾生たちに非難をあびせかけたのを、これまでにきいた覚えがなかった。かれは、まだあとに残されている自分への非難が、どんな言葉で表現されるかを、身がちぢまる思いで待っていた。
「君らのそうした非良心的な態度は、君ら自身をますます非良心的にするばかりではない。それがある限度をこすと、ついには、愛情と忍耐《にんたい》とをもって、君らの良心を力づけようと努力している人の心までをきずつけ、その愛情と忍耐とを、憎《にく》しみと怒《いか》りとに代えてしまうものだ。現に君らは、今朝の板木の音の調子が途中《とちゅう》から変わったことで、それがわかっただろうと思う。あの、おだやかで辛抱づよかった板木の音が、おしまいになって、急に怒りだしたとしか思えないような乱調子になったが、あれは、君らのあまりにも非良心的な態度が、板木をうつ人の心をきずつけた証拠《しょうこ》なのだ。……むろん、私は、愛情も忍耐心も失った、ああした乱暴な打ちかたを是認《ぜにん》はしていない。また、それをやむを得ないことだとして弁護しようとも思っていない。怒りや短気は、友愛塾の精神とは根本的に相いれないものなのだから、どんな事情のもとでも、ああした打ちかたは、二度とくりかえされてはならないことなのだ。もし今朝の板木当番が、ついに業《ごう》をにやしてあんな打ちかたをしたとすると、私はその人のために、まことに残念なことだと思っている。しかし、いっそうわるいのは、ああした打ちかたを余儀《よぎ》なくさせた君らの態度だ。君らさえもう少し良心的であってくれたら、板木を打った人も、ああしたあやまちを犯《おか》さないですんだのだろうと思うと、それが私はくやしくてならない。……だが、それはまあいい、それは百歩をゆずってあきらめるとしても、ここにどうしても私にあきらめのつかないことが一つある。それは、愛情で打たれた板木の音では寝床をはなれようとしなかった君らが、怒りで打たれた板木の音では、わけなくはね起きたということだ。その点で、君らは精神的にはまだ奴隷《どれい》の域を一歩も脱《だっ》していないということを証明している。いや、それどころか、君らはよりいっそうみじめな奴隷になることを希望しているとさえ私には思える。これはほんとうになさけないことだ。私は、むろん、こう言ったからといって、怒りに対しては怒りをもって立ち向かえ、と君らにすすめているのではない。ただ私は、愛情に対しては、つけあがり、怒りに対しては、ただちに膝《ひざ》を屈《くっ》するような君らの奴隷|根性《こんじょう》が、なさけなくて、じっとしてはいられない気持ちがするのだ――」
 次郎は、先生の言葉がますます激しくなっていくのにおどろいた。先生は、あるいは、昨日の入塾式における平木中佐の影響《えいきょう》から、できるだけ早く塾生たちを救い出そうとしていられるのかもしれない。しかし、それにしても入塾したばかりの青年たちに話す言葉としては、あまりにも激しすぎる。これではかえって逆効果を生むのではあるまいか。
 しかし、かれにとっていっそう不安に感じられたのは、今朝の板木の打ちかたについて、大河無門がぬれぎぬを着せられていることであった。
(おしまいの、あの乱暴な打ちかたをやったのが、自分だということは、すでに先生に言っておいたのに、先生はどうしてそのことをはっきり言われないのだろう。もしそれが助手としての自分の立場をまもってくださるためだとしたら、自分はむしろ心外だ。大河もむろん心外に思っているにちがいない。)
 かれは、そう思っ
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