な。」
「べつにこれと申す心得もございません。ただ定めに従いましてつきましただけで……」
 と、小僧はあくまでもつつましくこたえた。
「いや、そうではあるまい。世の常の心では、ああはつけるものではない。わしの耳には、そのまま仏界《ぶつかい》の妙音《みょうおん》ともきこえたのじゃ。鐘をつくなら、あのようにつきたいものじゃのう。何も遠慮《えんりょ》することはない。みんなの心得にもなることじゃ。かくさず、そなたの気持ちをきかせてはくれまいか。」
「おそれ入ります。では申しあげますが、実は国もとにおりましたころ、いつも師匠《ししょう》に、鐘をつくなら、鐘を仏と心得て、それにふさわしい心のつつしみを忘れてはならぬ、と言い聞かされておりましたので、今朝もそれを思い出し、ひとつきごとに、礼拝《らいはい》をしながらついたまででございます。」
 奕堂和尚は聞きおわって、いかにもうれしそうにうなずいた。そして、まだどこかに漂《ただよ》っていそうな鐘の音を追い求めるように、ふたたびしずかに眼をとじた。
 この妙音をつきだした小僧こそは、実に、後年の森田|悟由《ごゆう》禅師《ぜんじ》だったそうである。
          *
 朝倉先生は、この話を語りおわると、しばらく沈黙した。
 塾生たちは、かるくとじたまぶたをとおして、窓のすりガラスに刻々に明るくなって行く朝の光を感じながら、つぎの言葉を待った。軒端《のきば》には、雀がちゅんちゅんと、間をおいて鳴きかわしている。
 やがて先生は言葉をついだ。
「私はけさ、君らの中のだれかが打った板木の音を聞きながら、ふと、この話を思い出したが、それはおそらく、けさの板木が、ここの生活にふさわしい心をもって打たれていたからだと思う。君らの耳にあの音がどう響《ひび》いたかは知らない。しかし、私は、あの音から、この塾はじまって以来のゆたかな感じをうけたのだ。じっくりと落ちついて、すこしも軽はずみなところのない、また、すこしも力《りき》んだところのない、おだやかな、そして辛抱《しんぼう》づよい努力、――心の底に深い愛情をたたえた人だけに期待しうるような努力を、私はあの音から感じとり、これこそここの生活を象徴《しょうちょう》する響きだと思ったのである。――私は、しかし、奕堂和尚のように、だれが、どんな気持ちで、今朝の板木を打ったかを、しいて知りたいとは思わない。それは、もともとここの生活では、だれがどんな働きをして、どんな名誉《めいよ》を担《にな》うかということは、あまりたいせつなことではないからだ。ここの生活でたいせつなのは、名でなくて実である。心である。その心がむだにならないで、共同生活全体の中に生かされていけば、個々の人の名などは、しいて問題にする必要はない。そういう意味で、私は、今朝のような板木の打ちかたをする心をもった人が、君らの中に、少なくとも一人だけはいる、ということを知っただけで満足したいと思う。そして、その一人の心が、おたがいの生活の中に、すこしもむだにならないで生かされていくことを、心から期待したい。……つまり、愛情に出発した、おだやかな、しかも辛抱づよい努力、そういう努力を、単に板木を打つ場合だけでなく、すべての場合に払《はら》ってもらいたいのである。……名を求めず、ひたすらに実を捧《ささ》げるという気持ちに徹《てっ》して、そういう努力を、みんなで払ってもらいたいのである。――」
 朝倉先生は、そこでまた口をつぐんだ。塾生たちの中には、話がそれで終わったのかと思い、そっと眼をひらいて、先生の顔をのぞいて見たものもあった。
 次郎は、しかし、それどころではなかった。かれは、もう、先生のつぎの言葉が、槍《やり》の穂先《ほさき》のような鋭さで、自分の胸にせまっているのを感じ、かたく観念の眼をとじていたのだった。
「ところで――」
 と、先生は、かなり間をおいてから、つづけた。
「私は、率直《そっちょく》に言うと、君らが私の期待を裏切らないだろうということについて、残念ながらまだ十分の自信を持つことができない。というのは、今朝の板木が、あまりにもながく鳴りつづけたからだ。あれほど辛抱づよく、しかも、あれほどおだやかに鳴りつづけたということは、一方では、あれを打っていた一人の塾生の心の深さを物語るが、また、一方では、その一人をのぞいた多数の塾生の心の浅さを物語ることにもなったのだ。君らの大多数は、板木を打った一人の塾生があれほどの誠意を示したにもかかわらず、容易にそれにこたえようとはしなかった。君らにとっては、その誠意よりも、寝床《ねどこ》の中のぬくもりのほうがはるかにたいせつだったのだ。あたたかい寝床の中で、うつらうつらと、できるだけ眠《ねむ》りを引きのばすことを、人間の誠意以上に、たいせつにする心、これは
前へ 次へ
全109ページ中46ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング