」
「出してわるいことはない。しかし、出さないほうがいいんだ。少なくとも、今朝の話には、出さないほうがよかったんだ。」
次郎はちょっと考えていたが、
「ええ、それはぼくにもわかります。しかし、そのために、大河君がぬれ衣《ぎぬ》をきなければならないという道理はないでしょう。ぼくとしては、それがたまらないほど心苦しいんです。」
「心苦しければ、君自身で何とか始末したらいいだろう。原因はもともと君にあるんだから。……私は、板木の音そのものを問題にしただけなんだ。」
次郎は、朝倉先生らしくない詭弁《きべん》だという気がしてさびしかった。かれは語気を強めて言った。
「むろん、ぼくは大河君にあやまるつもりでいます。しかし、大河君としては、ぼくがあやまっただけでは、気がすまないでしょう。」
「そうかね――。」
と、朝倉先生は、まじまじと次郎の顔を見ながら、
「私は、大河をそんなふうに思うのは、むしろ大河に対する侮辱だという気もするんだがね。」
次郎は、いきなりぴしりと胸に笞《むち》をあてられたような気がした。かれの眼には、大河の、今朝のしずまりきった静坐の姿がひとりでに浮《う》かんで来た。むろん、先生に返す言葉は見つからなかった。先生は、すると、微笑《びしょう》しながら、
「君は大河の思わくなんかを問題にするまえに、君自身のことを問題にすべきだと思うが、どうだね。」
それは第二の笞だった。しかも、第一の笞よりはるかにきびしい笞だった。
「わかりました。」
と、次郎は眼をふせたまま頭をさげ、逃《に》げるように塾長室を出た。
やがて朝食の時間になった。次郎は箸《はし》をにぎっている間も、ときどき眼をつぶって、何か考えるふうだった。
食後には、みんな卓についたまま、雑談的に感想を述べあったりする時間が設けられていた。次郎は、その時間が来るのを待ちかねていたように立ちあがった。そして、みんなに今朝の起床の板木のいきさつを話し、最後につけ加えた。
「ぼくは、ながいこと友愛塾の仕事を手伝わせていただいていながら、その精神がまだちっとも身についていなかったために、けさのようなあやまちを犯してしまいました。ほんとうに恥《は》ずかしいことだと思っています。しかし、そのあやまちによって、開塾そうそう、大河君のような、友愛塾精神に徹底した、実践家《じっせんか》の魂《たましい》にふれることができたことを思いますと、一方では、かえってありがたいような気持ちもしています。」
みんなの視線は、もうさっきから大河に集中されていた。大河の顔には、しかし、それでてれているような表情はすこしも見られなかった。かれはただ一心に次郎の顔を見つめ、その声に耳をかたむけているだけであった。
そのあと、八時から正午まで、「郷土社会と青年生活」という題目で、朝倉先生の講義があり、午後は屋外|清掃《せいそう》と身体検査、夜は読書会や室内|遊戯《ゆうぎ》などで、開塾第一日の行事が終わった。
消燈まで、これといってとりたてていうほどの変わったこともなかった。しかし、大河無門が、かれ自身の希望に反して、あまりにも早くその存在を認められ、みんなの注目の的になったということは、この塾にとって、よかれあしかれ、決して小さなできごとではなかったといえるであろう。
朝倉夫人は、行事をおわって空林庵に引きあげるまえに、わざわざ次郎の室にやって来て、しばらく話しこんだ。その話の中にこんな言葉もあった。
「次郎さんの板木の打ちかたには、行事の性質や、そのときどきの必要で、少しずつちがった調子が出ますわね。あたしは、それがいいと思いますの。それでこそ、そのときどきの気分が出るんですもの。板木だって、打ちかた次第《しだい》では芸術になりますわ。あたし、次郎さんの板木の音をきいていると、いつもそう思いますのよ。先生には叱《しか》られるかもしれないけれど、今朝の打ちかただって、頭かぶせにわるいとばかりいえないんじゃないかしら。」
次郎は、それで安心する気にはむろんなれなかった。しかし、夫人がそんなことを言って自分をなぐさめるために、わざわざ自分の室にやって来たのだと思うと、何か心のあたたまる思いがした。そして、その日のかれの日記の中に、そのことが、今朝からのできごととともに、大事に書きこまれていたことは、いうまでもない。
七 最初の日曜日
最初の日曜が来た。開塾《かいじゅく》の日がちょうど月曜だったので、まる一週間になる。
この一週間は、塾生たちにとっては、まったく奇妙《きみょう》な感じのする一週間だった。朝倉先生夫妻も、次郎も、生活の細部の運営については、自分たちのほうからは、何ひとつ指図《さしず》をせず、また、塾生たちから何かたずねられても、「ご随意《ずいい》に」とか、「適当に
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