ていたので、かれらも、まがりなりにも責任だけは、果たさなければならなかったし、それに、きびしい寒さと、おたがいの眼とが、かれらを、外見だけでも、いかにも忙《いそが》しそうな活動に駆《か》りたてていたのである。
次郎は、自分の責任である二つの室の掃除を終わると、すぐ便所掃除の手伝いに行った。これは、かれが助手として塾生活をはじめた当初からの、一つの誓《ちか》いみたようになっていたのである。
かれが、便所に通ずる廊下の角をまがると、一段さがった入り口のたたきの上に立って、何かしきりと声高《こわだか》にがなりたてている一人の塾生がいた。見ると、飯島好造だった。
「おはよう。ここは何室の受け持ちでしたかね。」
次郎は近づいて行って声をかけた。
「第五室です。僕《ぼく》たちで、最初にここを受け持つことにしたんです。」
飯島は、いかにも得意らしくこたえた。
ゆうべの懇談会で、日々の掃除の分担は管理部で割りあて、毎晩|就寝前《しゅうしんまえ》に、翌日の分を各室に通告するということにきまったのだったが、その管理部の責任を、最初の一週間第五室が負うことになっている関係上、だれしもいやがる便所掃除を、まず手始めに自分たちで引きうけることにしたものであろう。それはそれで、むろんいいことにちがいない。しかしあたりまえ以上のいいことでもなさそうだ。――次郎は、つい、そんな皮肉な気持ちになったのだった。
しかし、つぎの瞬間《しゅんかん》に、かれの頭にひらめいたのは大河無門のことだった。かれは、すると、もう飯島の存在を忘れて、大河の姿を便所のあちらこちらにさがしていた。
左右の窓の下に、小便つぼがそれぞれ七つほど並《なら》んでおり、そこを四人の塾生が二人ずつにわかれて、棒だわしで掃除していたが、その中には、大河の姿は見えなかった。
つきあたりに、大便所がこれも七つほどならんでいる。そのうちの、右はじの一つだけが戸が開いており、その少し手前の、たたきの上に、水をはったバケツが一つ置いてあるのが見えた。戸の開いた便所の内側は、電燈の光を斜《なな》めにうけているので、よくは見えない。しかし、だれか中で掃除をしていることだけはたしかだった。六人の室員のうち、飯島は入り口に立っており、両がわの小便所に二人ずつ働いているのだから、あとの一人は大河にきまっている。次郎は、そう思って、すぐ声をかけようとした。しかし、なぜか思いとまった。そして、入り口の横の板壁《いたかべ》にかけてあった便所用の雑巾を一枚とり、それをたたきの上のバケツの水にひたして、しぼったあと、大河のはいっているのとは反対のはじの大便所の戸をあけ、中にはいった。
飯島は、それまで、やはり入り口の階段に立って、何かと指図《さしず》がましい口をきいていた。しかし、次郎が雑巾をもって大便所の中にはいったのを見ると、さすがに気がひけたらしく、指図する言葉のはしばしがにぶりがちになり、何かしら気弱さを示していた。
「こんな寒い時には、ぐいぐいはたらくに限るよ。室長なんかになるもんじゃないね。」
じょうだんめかして、そんなこともいった。ゆうべ各室で就寝前に行なわれた互選《ごせん》の結果、かれは第五室の室長になっていたのである。
次郎は吹《ふ》きだしたい気持ちだった。同時に、心の中で思った。
(飯島のような人間はとうてい救えない。それにくらべると、田川大作のほうはまだ見込《みこ》みがある。)
かれは、窓ガラス、窓わく、板壁、ふみ板と、上から下へ、つぎつぎに拭《ふ》きあげて行きながら、おりおりそとをのぞいて飯島の様子に注意していた。そのうちに、飯島は急に何か思い出したように叫《さけ》んだ。
「あっ、そうだ。僕はここだけにへばりついていては、いけなかったんだ。」
そして、次郎のほうをちょっとぬすむように見ながら、
「第五室は、管理部として全体の責任を負っているんだからね。僕、一まわりして、様子を見て来るよ。」
飯島は、そう言うと、いかにもあわてたように、あたふたと廊下に足音をたてて去った。
朝倉先生は、かつて次郎に、「現在の日本の指導層の大多数は、正面からは全く反対のできないようなことを理由にして、自分たちの立場を正当化したがるきらいがあるが、そうしたずるさは、ひとり指導層だけに限られたことではないようだ。たいていの日本人は、何かというと、表面堂々とした理由で自分の行動を弁護したり、飾《かざ》ったりする。しかも、それで他人をごまかすだけでなく、自分自身の良心をごまかしている。それをずるいなどとはちっとも考えない。これはおそろしいことだ。友愛塾の一つの大きな使命は、共同生活の実践《じっせん》を通じて、青年たちをそうしたずるさから救い、真理に対してもっと誠実な人間にしてやることだ。」というような意
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