袋《たび》もはいていなかった。しかし、べつに寒そうなふうでもなく、両足をふんばり、頭から一尺ほどの高さの板木を、近眼鏡の奥《おく》から見つめて、いかにも念入りに、ゆっくりと槌《つち》をふるっていた。
次郎は、思いきりドアをあけ、
「おはようございます。」
とあいさつして、大河に近づいた。
大河は、その時、ちょうど槌をふりあげたところだったが、それを打ちおろしたあと、ちらと次郎のほうを見て、あいさつをかえした。
そして、そのまま、すこしも調子をかえないで、また槌をふるいつづけた。
「もういいでしょう。ずいぶんながいこと打ったんじゃありませんか。」
次郎が、寒そうに肩《かた》をすくめながら、言うと、
「ええ、でも、まだだれも起きた様子がないんです。」
と、大河は槌をふるいながら、こたえた。
「しかしもう眼はさましていますよ。」
「そうでしょうか。」
「きっとさましていますよ。どの室にも、眼をさましているものが、もう何人かはあるはずです。」
大河は、それでも同じ調子で打ちつづけながら、
「いつもこんなに起きないんですか。」
「ええ、はじめのうちは、いつもこんなふうですよ。五分や七分はたいていおくれます。」
「すると、起こしてまわるほうが早いですかね。」
「そうかもしれません。しかし、それはやらないほうがいいでしょう。板木《ばんぎ》で起きる約束《やくそく》をしたんですから。」
「じゃあ、やはり打ちつづけるよりほかありませんね。」
「打ちやめると、それでかえって起きることもありますがね。」
「なるほど。……ふん。……そういうものですかね。……あるいはそうかもしれない。」
大河は、ひとりごとのように、そう言いながら、やはり打ちやめなかった。そして、相変わらず板木に眼をすえ、
「ぼくたち、学生時代の学寮《がくりょう》生活を自治だなんていって、いばっていたものですが、本気にやろうとすると、実際むずかしいものですね。」
「ええ、結局は一人一人の問題じゃないでしょうか。」
「ぼくもそうだと思います。命令者に依頼《いらい》する代わりに、多数の力に依頼するんでは、自治とは言えませんからね。」
次郎は大河の横顔を見つめて、ちょっとの間だまりこんでいたが、ふと、何か思いついたように、
「ちょっとぼくに打たしてみてください。」
大河は板木を打ちやめ、けげんそうに次郎のほうをふり向いて槌をわたした。次郎は、すぐ大河に代わって板木を打ちだしたが、その打ちかたは、一つ一つの音が余韻《よいん》をひくいとまのないほど急調子で、いかにも業《ごう》をにやしているような乱暴さだった。
大河は、あきれたように、その手ぶりを見つめて立っていた。次郎は、しかし、それには気づかす、おなじ乱暴な調子で、つづけざまに三四十も打つと、急にぴたりと手をやすめた。そして、半ば笑いながら、言った。
「板木を打つのは、もうこれでおしまいにしましょう。これで起きなけれぼ、ほっとくほうがいいんです。」
ところで、かれの言葉が終わるか終わらないうちに、二三の室から、急にさわがしい人声や物音が、廊下をつたってきこえだした。
「起きだしたようです。もうだいじょうぶですよ。」
次郎は、そう言って、槌を柱にかけ、事務室のほうにかえりかけた。すると、その時まで眉根《まゆね》をよせるようにしてかれの顔を見つめていた大河が、急に、真赤な歯ぐきを見せ、にっと笑った。そして、
「なんだか、ひどく叱《しか》りとばされて、やっと起きた、といったぐあいですね。」
「はっはっはっ。」
次郎は愉快《ゆかい》そうに笑って、事務室にはいり、すぐ掃除《そうじ》をはじめたが、その時になって、大河のにっと笑った顔と、そのあとで言った言葉とが、変に心にひっかかりだした。
塵《ちり》を廊下に掃《は》き出すと、かれはバケツに水を汲《く》んで来て、寝間《ねま》と事務室とに雑巾《ぞうきん》がけをはじめた。窓をすっかりあけはなった、まるで火の気のない、二月の朝の空気は、風がないためにかえってきびしく感じられた。これまでたびたび同じ経験をつんできたかれにとっても、仕事は決してなまやさしいものではなかった。どうかすると、手がしびれるようにかじかんで、雑巾が思うようにしぼれず、また、拭《ふ》いたあとの床板が、つるつるに凍ることさえあるのだった。かれは、しかし、二つの室をすみからすみまで、たんねんに拭《ふ》きあげた。
もう、そのころには、廊下を行き来する塾生たちの足音も頻繁《ひんぱん》になり、ほうぼうから、わざとらしいかけ声や、とん狂《きょう》な笑い声などもきこえていた。ゆうべの懇談会で分担《ぶんたん》をきめ、かれら自身の室はもとより、建物の内部を、講堂や、広間や、便所にいたるまで、全部|清掃《せいそう》することに申し合わせ
前へ
次へ
全109ページ中42ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング