味のことを、いったことがあったが、次郎は、便所の中から、飯島のうしろ姿を見おくりながら、その言葉を思いおこし、今さらのように、大きな困難にぶっつかったような気がしたのだった。
 飯島の足音がきこえなくなると、小便所の掃除をしていた四人が、かわるがわる言った。
「すいぶん、ちゃっかりしているなあ。」
「何しろ紳士《しんし》だからね。」
「郡の団長なんかやってると、あんなふうになるもんかね。」
「そりゃあ、あべこべだよ。あんな人だから、郡の団長なんかになりたがるんだ。」
「つぎは、そろそろ県会議員というところかね。」
「ふ、ふ、ふ。」
「そういうと、ゆうべの室長選挙も何だか変だったぜ。」
「はじめから、自分が室長だときめてかかっているんだから、かなわないよ。」
「心臓だね、じっさい。」
「その心臓に負けて、いやいやながら全員|一致《いっち》の推薦《すいせん》をやったというわけか。」
「妙《みょう》なもんだね、選挙なんて。」
「選挙なんてそんなものらしいよ。どこでもたいていは心臓の強いのが勝っているんだ。」
「はっはっはっ。」
 次郎は、そんな対話の中にも、友愛塾に課された大きな問題があると思った。そして、かれらの話がどう発展していくかを興味をもって待っていた。かれらは、しかし、笑ったあと、急に口をつぐんでしまった。次郎が大便所の中にいることをだれかが思い出して、みんなのおしゃべりを制止する合い図をしたものらしい。
 次郎と大河とは、間もなく、それぞれに最初の大便所の掃除を終わって、となりの大便所に移っていた。まだだれも手をかけない大便所が、あいだに三つほどはさまっている。次郎は、さっきから、大河に話しかけてみたい気持ちは十分だった。しかし、遠くからのかけ合い話は、この場合、何となくぴったりしなかったし、また、雑巾をゆすぎに出たついでに、そっとのぞいて見た大河の様子が、いかにも沈黙《ちんもく》の行者《ぎょうじゃ》といった感銘《かんめい》をかれに与《あた》えていたので、口をきるのがよけいにためらわれるのだった。
 そのうちに、小便所の掃除が終わったらしく、それにかかっていた四人のうちの三人が、とん狂な笑い声をたてながら、大便所の掃除をはじめ、あとの一人が、たたきに水を流しはじめた。で、次郎は、二つ目の大便所の掃除をおわると、すぐそこを去って講堂のほうに行った。大河とは、ついに言葉をかわさないままだったのである。
 講堂では、掃除はもうあらかた終わって、机や椅子《いす》の整頓《せいとん》にとりかかるところだった。そこは、第一室と第二室の共同の受け持ちだったらしく、田川大作や青山敬太郎などの顔も見えていた。田川は、例のしゃがれた、激《はげ》しい号令|口調《くちょう》で、ほかの塾生たちをせきたてながら、自分でも椅子や机を運んで敏捷《びんしょう》にたちはたらいていた。これに反して、青山の態度はきわめて冷静だった。かれは、田川の声には無頓着《むとんちゃく》なように、並《なら》べられていく机の列をじっとにらんでは、そのみだれを正していた。――二人とも、それぞれに室長に選ばれていたのである。
 次郎が入り口に立って様子をながめていると、
「もうここはだいたいすんだようですよ。」
 と、みんなにきこえるような声で言いながら、教壇《きょうだん》をおりてかれのほうに近づいて来た塾生があった。飯島である。次郎は思わず苦笑した。何かむかむかするものが、胸の底からこみあげて来るような気持ちだった。しかし、かれはしいて自分をおちつけ、
「そうですね。」
 と、なま返事をして眼をそらした。そして、そのまま、すぐそこを去り、塾長室のほうに行った。
 塾長室の掃除は、朝倉先生夫妻が、空林庵の掃除をすましたあと、給仕の河瀬《かわせ》に手つだってもらって、自分たちの手でやることになっていたが、次郎も、都合がつきさえすれば、手つだうことにしていたのである。
 中にはいって見ると、もう掃除はすっかりすんでおり、河瀬がストーヴに火を入れているところだった。夫人は炊事場《すいじば》のほうにでも行ったらしく、朝倉先生だけが、まだあたたまらないストーヴのそばの椅子にかけて、手帳に何か書き入れていた。
「どんなふうだね。」
 先生は、次郎の顔を見ると、手帳をひらいたまま、たずねた。
「はあ――」
 と、次郎は笑いながら、
「例によって、指導者がいるようですね。」
「飯島なんかも、そうだろう。」
「ええ、とくべつ露骨《ろこつ》なようです。」
「田川はどうだい。」
「ちょっとその気があるようですが、軍隊式ですから、飯島とは質がちがいます。気持ちはあんがい純真じゃないかと思いますが……」
「そうかもしれないね。……それで、べつにこれまでと大して変わったこともなかったんだね。」
「ええ――」

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