だ。それは私にもよくわかっている。しかし、私は、君らがこの塾堂の生活にもたえないほど弱い人間であるとは思っていないし、また思いたくもない。だから、私は、君らが何かの強制力にたよるまえに、まず君ら自身の良心にたより、人間として、君らの最善をつくしてもらいたいと思っているんだ。君らが、ほんとうにその気になりさえすれば、少なくとも、この塾堂の生活ぐらいは、何の強制もなしに運営していけるだろうと、私は信じている。君ら自身も、人間であるからには、そのぐらいの自信は持っていてもいいだろう。いや、持っていなければならないはずなのだ。もし君らに、それだけの自信、――人間としてのそれだけの誇《ほこ》りも持てないとすると、私としては、もう何も言うことはない。明日からの行事計画をたてることも、まったく必要のないことだ。……どうだ、飯島君、やはり強制がなくてはだめかね。」
「わかりました。」
飯島は、いくぶんあわて気味にこたえた。それだけに、いかにも無造作《むぞうさ》な、たよりない答えだった。
「田川君は、どうだね。」
田川は、それまで、眉根《まゆね》をよせ、小首をかしげて、いやに深刻そうに畳《たたみ》の一点を見つめていたが、だしぬけに自分の名をよばれて、飯島とはちがった意味で、あわてたらしかった。しかし、かれはすぐにはこたえなかった。こたえるかわりに、何度も小首を左右にかしげ直し、するどい眼で畳をにらみまわした。それから、朝倉先生のほうをまともに見て、そのしゃがれた声をとぎらしがちにこたえた。
「ぼく……もっと……考えてみます。」
「もっと考える? ふむ。腑《ふ》に落ちなければ、腑に落ちるまで考えるよりないだろう。自分で考えないで、人の言うことをうのみにする生活なんて、まるで意味がないからね。」
朝倉先生は、そう言って微笑した。そして、それ以上口で説きふせることを断念した。いずれはこれからの生活体験が、徐々《じょじょ》にかれらを納得させるだろう、というのが先生のいつもの信念だったのである。
「田川君のほかにも、まだよく納得がいかないでいる人がたくさんあるだろうと思うが、そうした根本問題については、これから何度でもむしかえして話しあう機会があるだろう。そこで、それはいちおう未解決のままにして、ともかくも具体的な問題にはいることにしょう。じゃあ、時間もおそくなったし、私のほうから案を出すことにするよ。」
先生は、そう言って、次郎に目くばせした。次郎は待ちかまえていたように、自分のそばに置いていた紙袋《かみぶくろ》から、ガリ版の印刷物をとり出して、みんなに配布した。
それには、組織や、講義科目や、諸行事の時間割など、必要な諸計画が一通りならべられていたが、そのどの部分を見ても常識からとびはなれたようなことは一つもなかった。塾堂と名のつくところでは、そのころほとんどつきもののようになっていた「みそぎ」とか、「沈黙《ちんもく》の労働」とか、およそそういった、いわゆる「鍛練《たんれん》」的な行事が全く見当たらないのは、むしろみんなには、ふしぎに思われたくらいであった。五時半起床というのが、二月の武蔵野《むさしの》では、ちょっとつらそうにも思えたが、それも青年たちにとっては、決しておどろくほどのことではなかった。むしろかれらをおどろかしたのは、生活にうるおいを与《あた》えるような行事が、かなりの程度に、織《お》りこまれていることであった。とにかく、見る人が見れば、日常生活を深め高める目的で、すべてが計画されているということが明らかであった。
相談は安易《あんい》にすぎるほど、すらすらとはこび、ほとんど無修正だった。特異《とくい》な行事を期待していた塾生たちにとっては、多少物足りなく感じられたらしかったが、そのために、これという強硬《きょうこう》な主張も出なかった。最も多く発言したのは飯島だった。しかし、それも、自分の存在を印象づける目的以上の発言ではなく、たいていは原案賛成の意見をのべ、同時に進行係をつとめるといったふうであった。田川は、はじめから終わりまで、一言も口をきかなかった。
ただ、組織に関することで、室編成のほかに、生活内容の面から、いろいろの部が設けてあり、全員が期間中に、一度はどの部の仕事も体験するという仕組みになっていたので、その運営の方法や、人員の割り当てなどについて、いろいろの質問が出、その説明に大部分の時間がついやされたのであった。
就寝《しゅうしん》は九時半、消燈《しょうとう》十時ときまったが、懇談会を終わったときには、すでに九時半をすぎていた。
解散するまえに、朝倉先生が言った。
「これで、ともかくも、ここの生活設計がおたがいのものとしてできあがった。おたがいのものとしてできあがった以上、それがうまくいかなければ、おた
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