、もうほかにむずかしいことはないだろう。特別にすぐれた能力がなくても、常識のある人間なら、だれにだってできる生活なんだからね。ここの生活を甘《あま》く見てもらっても困るが、おびえる必要もないよ。」
塾生たちの表情は、さまざまだった。次郎は、その一人一人の顔を注意ぶかく観察していたが、先生の言ったことを十分理解したのは、青山のほかには大河無門だけではないかという気がした。
朝倉先生は、そこでちょっと腕時計《うでどけい》をのぞいたが、
「話がついいろんなことにとんだが、しかし、むだではなかったようだね。ところで、かんじんの明日からの行事計画に、まだちっとも目鼻がついていないが、どうだね、ここいらで話を具体的なことにもどしては? もし君らのほうに特別な案がなければ、私のほうから話のきっかけを作る意味で、それを出してみてもいいが。」
「どうかお願いします。」
飯島がまっさきにこたえた。つづいて同じような答えがほうぼうからきこえた。飯島はそれにつけ足すように言った。
「はじめからそうしていただくと、むだな時間がはぶけてよかったんですがね。」
朝倉先生は、あっけにとられたように飯島の顔を見た。それから、ちょっと皮肉らしい苦笑《くしょう》をうかべながら、
「なるほどね。しかし、君らにうのみ[#「うのみ」に傍点]にされて、あとで腹いたでも起こされては困ると思ったものだからね。」
塾生たちの中に笑ったものがあった。しかし、それはほんの二三人にすぎなかった。大多数は先生の言った皮肉の意味が、まだ、まるでわかっていないかのような、まじめくさった顔をしていた。飯島もやはりその一人だった。
朝倉先生は、ちょっとため息をついたあと、
「では、まず起床と就寝の時刻からきめていこう。これは、まさか、午前三時に起きて午後十一時にねる、というわけにはいくまいね。それとも、鍛練のつもりで、やってみるかね。」
「わあっ!」
塾生たちは、一せいにどよめいて、頭に手をやった。田川も、さすがに苦笑しながら、頭をかいている。
「みんな不賛成らしいね。すると、何時が適当かな。」
「先生の原案はどうなんです。」
飯島がまた原案を催促《さいそく》した。
「これぐらいは、私から原案を出さなくても、何とかまとまりそうなものだね。」
「しかし、みんなで相談していたら、起床はなるだけおそいほうがいいということになりゃあしませんか。」
「あるいは、そういうことになるかもしれないね。極端《きょくたん》にいうと、十時起床ということになるかもしれない。」
「かりにそうなるとしたら、それでもいいんですか。」
「君自身はどう思う? 私の意見より、まず君自身の意見からききたいね。」
「ぼくは、むろん、いけないと思います。」
「君のまじめな常識がそれを許さないだろう。」
「そうです。」
「そうだとすると、みんながまごころをこめて常識をはたらかしさえすれば、落ちつくべきところに落ちつくんではないかね。」
「そうなればいいんですが、実際は、やはり、なるだけおそくということになりそうに思うんです。」
「その実際を、おたがいに鍛《きた》えあうのが、ここの生活だろう?」
「はあ。しかし、それには、先生のほうからもいくらかの強制を加えていただかないと――」
「やはり強制が必要だというのかね。それじゃあ話はまた逆もどりだ。」
朝倉先生は、手にもっていた塾生名簿を畳《たたみ》のうえになげだして、腕をくんだ。そして、かなりながいこと、眼をつぶってだまりこんでいたが、やがて眼をひらくと、ちょっと飯島のほうを見たあと、みんなの顔を見まわして言った。
「強制されると、どんな不合理なことにでも盲従《もうじゅう》する。おたがいの相談に任されると、なまけられるだけなまける工夫をする。もしそういうことが人間にとってあたりまえのことだとして許されるとすると、いったい人間の自主性とか良心とかいうものは、どういう意味をもつことになるんだ。いや、いつになったら、人間はおたがいに信頼《しんらい》のできる共同生活を営《いとな》むことができるようになるんだ。」
先生の言葉の調子は、はげしいというよりは、むしろ悲痛だった。
「私は、君らを、良心をもった自主的な人間としてここに迎《むか》えた。だから、かりに君ら自身が、君らを機械のように取りあつかってくれとか、犬猫《いぬねこ》のようにならしてくれとか、私に要求したとしても、私には絶対にそれができない。私は、あくまで、君らが人間であることを信じ、君らに人間としての行動を期待するよりほかはないのだ。むろん私も、人間の世の中に、強制の必要が全然ないとは思っていない。弱い人間にとっては、やはりそれが必要なこともあるだろう。時には、それが弱い人間を救う唯一《ゆいいつ》の方法である場合さえあるの
前へ
次へ
全109ページ中39ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング