覚悟次第です。」
田川は、追いつめられて、何もかも「覚悟」でかたづけたが、もうすっかりやけ気味らしかった。朝倉先生は、それ以上、深追《ふかお》いすることを思いとまって、しばらくじっと田川の顔を見つめていたが、
「君、片意地《かたいじ》になっては、いけないよ。それじゃあ、ちっとも君自身の心の鍛練にはならない。とかく世間では、意地をはって心にもないやせがまんをするのを、鍛練だと思いがちだが、それは鍛練の本筋《ほんすじ》ではない。鍛練の本筋は、すなおな気持ちになって、道理に従っていく努力を積むことなんだよ。君にはその大事な本筋が、まだわかっていないんじゃないかね。……いや、君だけじゃない。私の見るところでは、今の日本人の大多数に、それがわかっていないらしい。そのために、日本は今、国全体として変に力《りき》みかえり、意地をはって、非常な無理をやっている。国の内でも外でも、意地をはり、無理をやることが、日本の生きて行くただ一つの道ででもあるかのような考え方で、すべてのことが運ばれているんだ。だから、自然、君らも、鍛練といえば、すぐ、意地をはったり無理をやったりすることだ、というふうに考えたがるのかもしれないが、しかし、そうした傾向《けいこう》は、日本にとって決して喜ぶべき傾向ではないよ。私は、そうした傾向から、おそろしい結果が近い将来に生じて来やしないかと、それをいつも心配しているぐらいなんだ。私が、こうして、及《およ》ばずながら、この塾の責任をひきうけているのも、せめては、ここに集まって来る青年諸君だけにでも、すなおな、道理にかなった共同生活の建設に努力してもらって、その体験をとおして、いくらかでもそうした危険な傾向を阻止《そし》してもらいたいためなんだ。わかってもらえるかね。」
朝倉先生は、しだいに、しみじみとした調子になっていった。田川も、さすがに、それでいくらか心を動かされたらしく、もう、あからさまな反抗的《はんこうてき》態度は示していなかった。しかし、何かまだ腑《ふ》におちないところがあるのか、ちょっと首をふっただけで、やはり返事はしなかった。
すると、それまで、窓の近くにいて、腕をくみ、眼をつぶり、何か深く考えこんでいるらしく見えていた一人の青年が、急に眼を見ひらいて、言った。
「ぼくは、先生のおっしゃることが、やっと、どうなりわかったような気がします。しかし、すいぶんむずかしい生活ですね。」
どちらかというと、青白い顔の、知性的な眼をした、しかし十分労働できたえたらしい、がっちりした体格の持ち主だった。
「第三室の青山敬太郎君です。」
次郎が朝倉先生に小声で言った。
青山の推薦者《すいせんしゃ》から塾堂に来た手紙によると、かれは二十三歳の若さで、弘前《ひろさき》の郊外に、相当大きなりんご園を経営しており、しかも、そのりんご園の中に、私財を投じて、付近の青年たちのために小さな集会所を建て、毎晩のように、自分もいっしょになって読書会や農業研究会などをやっている、とのことであった。そのせいで、大河無門とともに最初から次郎の注目をひいていた一人だったのである。
朝倉先生は、青山の青年集会所のことが簡単に名簿の備考欄に書きこまれてあるのに目をとおしながら、何度もうなずいていたが、
「むずかしいっていうと?」
「強制されないでうまくやっていくほど、むずかしいことはないと思うんです。」
「しかし、強制されないとやれないほど、むずかしいことをやろうというんではないよ。」
「ええ、それはわかっています。」
「常識をはたらかせさえすれば、だれにもできる生活をやろうというんだから、こんなやさしいことはない、とも言えると思うがね。」
「しかし、常識をはたらかせると言っても、ふまじめではこまるんでしょう。」
「そりゃあむろんさ。まごころのこもった常識でなくちゃあ――」
「そのまごころのこもった常識というのが容易ではないとぼくは思うんです。常識的な、平凡《へいぼん》なことをやる時ほど、人間はふまじめになりがちなものですから。」
「うむ。」
と、朝倉先生は大きくうなずいて、
「たしかに、君の言うとおりだ。その点では、ここの生活は非常にむずかしい。これまで、鍛練というと、とかく常識はずれのことばかりが考えられて、まともな日常生活に必要な常識を、まごころをこめてはたらかすための鍛練ということは、ほとんど忘れられていたようだが、実は、一ばんたいせつで、しかも一ばんむずかしいのは、そうした鍛練なんだ。そのたいせつでむずかしい鍛練を、これから君らおたがいの間でやってもらおうというのが、ここの生活の目的なんだから、そういう意味で、君がここの生活をむずかしいと言ったのは、ほんとうだ。しかし、そこに気がついて、そのつもりで努力する気になってさえもらえば
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