手の顔から眼をはなして、塾生名簿を見ながら、
「君は何室だったかね。」
「第一室です。」
「名前は?」
「田川大作。」
田川の返事は、しだいにぶっきらぼうになっていった。
名簿には、「熊本県、二十六歳、村農会書記、村青年団長、農学校卒」とあり、備考欄に、「歩兵|伍長《ごちょう》、最近満州より帰還《きかん》」とあった。塾生たちも、しきりに名簿と本人の顔とを見くらべた。本人は、しかし、それでてれた様子はすこしもなく、相変わらず力《りき》みかえって、朝倉先生の顔を見すえていた。
朝倉先生は、名簿から眼をはなして、田川と視線をあわせながら、
「君の覚悟は、なるほどいい覚悟だが、しかし、そういう覚悟は、何かとくべつの場合の覚悟で、日常の生活を建設するための覚悟ではないようだね。第一、自分というものをあまりに軽んじすぎている。というよりは、自分の力を惜《お》しみすぎている、と言ったほうが適当かもしれないがね。」
「それはどうしてです? ぼくは――」
と、田川は、ふるえる唇《くちびる》をつよくかんだあと、
「ぼくは軍隊生活をやって来た人間ですが、自分の力を出しおしみしたことなんか、一度だってなかったんです。これからもないつもりです。ぼくは、今日、平木中佐|殿《どの》が言われたように、なにごとにでも死ぬ覚悟でぶっつかるつもりでいるんです。なまぬるいことは、ぼく、大きらいです。」
「よろしい。私は、だから、それはそれとしていい覚悟だと言っているんだ。しかし、君はだれかに鍛えてもらうことばかり考えて、自分で自分を鍛える努力を惜しんでいるんではないかね。」
「そんなことはありません。ぼくは、自分を鍛えたいと思ったからこそ、自分で希望して、わざわざ遠い田舎からこんなところにも出て来たんです。」
「しかし、自分の生活のことを自分で考えてみようともしないで、人に計画してもらおうとしているんだろう。それで自分の力を惜しんでいないといえるかね。」
田川は返事に窮《きゅう》したらしく、黙《だま》りこんだ。しかし、心で納得《なっとく》したようには、すこしも見えなかった。かれは、それまで膝の上に突っぱっていた両腕を組んで、天井《てんじょう》を仰《あお》いだ。
朝倉先生は、注意ぶかくその様子を見まもっていたが、
「田川君――」
と、ものやわらかな、しかし、どこかに重みのある声で呼びかけた。
「君の気持ちは、私にはわからんことはない。大いに鍛練《たんれん》されるつもりで、はるばるやって来て、ちっとも鍛練してもらえないとなったら、そりゃあ腹もたつだろう、無理はないよ。しかし、君がのぞんでいるような鍛練なら、君はもう軍隊生活で、十分うけて来たんではないかね。」
天井をにらんでいた田川の眼が、やっと朝倉先生のほうにもどって来た。しかし返事はしない。朝倉先生は、すこし考えてから、
「どうも、君と私とでは、鍛練という言葉の意味が、まるでちがっているようで、そこいらに君の不平の原因もあるようだが、自分たちの生活を自分たちで築きあげる能力を養うことも、一つの鍛練だと考えて、ここでは一つ、そういった意味での鍛練に精進《しょうじん》してみる気にはなれないかね。」
田川の顔には、冷笑に似たものが浮《う》かんだだけだった。
「やはり納得が行かないようだね。」
と、朝倉先生はちょっと眼をふせたが、すぐ何か決心したように、
「じゃあ、君にたずねるが、君は、私のほうできめたことなら、それにどんな無理があっても、無条件に従う気なんだね。」
「そうです。それがぼくたちの鍛練のためでさえあれば、喜んで従います。」
「もし、私が、明日からの起床《きしょう》は午前三時、就寝《しゅうしん》は午後十一時ときめたとしたら?」
田川は、かなりめんくらったらしく、眼玉《めだま》をきょろつかせたが、すぐ決然として、
「むろん、その通りにします。」
「よく考えてから、答えてくれたまえ。睡眠《すいみん》時間はわずかに、四時間だよ。」
「いいんです。覚悟をきめたら、がまんできないことはありません。ナポレオンは四時間しかねなかったんです。」
「なるほど。ナポレオンはそうだったそうだね。」
と、朝倉先生は微笑しながら、
「しかし、一日や二日はがまんできるだろうが、一か月半もの期間、はたしてできるかね。」
「できます。」
「君はできても、ほかの諸君はどうだろう。」
「そうきまったら、その覚悟をするほかありません。それが共同生活です。」
「ふむ、なるほどそれが共同生活か。しかし、そう無理をしては、病人が出るかもしれないね。」
「そんなことで病気になるのは覚悟が足りないからです。」
「かりに君らの覚悟次第で病人は出ないとしても、飯島君がさっき言った実質的なことがお留守《るす》になる心配はないかね。」
「それも
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