いって来たばかりの僕《ぼく》たちに、そんなことができるわけがないじゃないか。ね、そうだろう。」
「じっさいだね。」
 第三の声が、今度は心から共鳴したらしくこたえた。
 そのあと、しばらくは、がやがやといろんな声が入りみだれた。どの声もいくぶんうわずった真剣味《しんけんみ》のない声だったが、しゃがれた声に相づちをうっていることはたしかだった。おりおり、何かを冷笑するような声もまじっていた。
 そうしたざわめきをおさえつけるように、また、しゃがれた声がいった。
「だからさ、だから、もう相談なんかする必要はないよ。」
 みんなは、ちょっとの間|沈黙《ちんもく》したが、すぐだれかが、
「しかし、懇談会がはじまったら、何とか報告はしなくちゃならないんだろう。」
「そりゃあ、報告はするさ。ぼく、やってもいいよ。」
「何と報告するんだい。」
「相談の必要なし、ということに相談できめた。そういえばいいだろう。」
 どっと笑い声がおこった。すると、しゃがれた声が、おこったように、
「ぼく、ふざけていってるんじゃないんだ。じっさいそうだから、そういうよりほかないじゃないか。もしそれでいけなかったら、ぼくいつでも退塾するよ。わざわざ旅費を使って出て来たのが、ばかばかしいけれど、しかたがない。」
 室内が急にしいんとなった。
 次郎は、これまでの例で、この日の室ごとの相談会に大した期待はかけていなかった。また、軽い気持ちでなら、かれらの間にそうした言葉のやりとりぐらいはあるだろう、とも想像していた。しかし、しゃがれた声の調子はあまりにもいきりたっていたし、それを今朝の式場での平木|中佐《ちゅうさ》の言葉と結びつけて考えないわけには行かなかった。
 かれは変な胸さわぎを覚えながら、息をころしていた。
「じゃあ、君にまかせるかな。」
 だれかが不安そうにいった。
「ほかの室では、どうなんだろう。」
 べつの声で、これもいかにも不安そうである。
「ぼく、様子を見て来るよ。」
 だれかが立ちあがる気配《けはい》だった。
 次郎は、それであわてて事務室のほうにいそいだ。
 かれは、事務室にはいっていって自分の机のまえに腰《こし》をおろすと、急に、立聞きをしたり、あわてて逃《に》げだしたりした自分のみじめさが省《かえり》みられて、さびしかった。それは、変にいらいらしたさびしさだった。しだいに腹もたって来た。いつもなら、ごく気軽に、いまのことを朝倉先生に報告するところだったが、――そして今日の場合、とくべつその必要が感じられていたはずなのだったが――なぜか、かれは、いつまでも机の上にほおづえをついたまま、動こうとしなかった。
 それでも、七時になると、かれは元気よく立ちあがって、廊下《ろうか》の板木《ばんぎ》を打ち、そのまま広間にはいって行った。夜の懇談会がはじまる時刻だったのである。
 みんなが集まると、朝倉先生のつぎの言葉で懇談会がはじまった。
「では、これから、いよいよおたがいの共同生活の具体的な設計にとりかかりたいと思う。それには、まず、各室で話しあった結果をいちおう報告してもらって、それを手がかりに相談をすすめることにしたい。どの室からでもいいから、遠慮《えんりょ》なく発表してくれたまえ。」
 塾生たちは、しかし、そう言われても、おたがいに顔を見合わせるだけで、だれも口をきこうとするものがなかった。次郎は、第一室のしゃがれ声の発言を、今か今かと待っていたが、それもすぐには出そうになかった。
 かなりながい沈黙がつづいた。
 朝倉先生は、しかし、そんなことは毎回慣らされていることなので、ちっとも困ったような顔を見せなかった。みずから考え、みずから動く訓練よりも、指導者の意志どおりに動く調練をうけることによって、よりよき人間になると信じこまされて来た青年たちにたいして、塾堂の主脳者たる自分から、そんなふうに相談をもちかけることが、いかに場ちがいな感じを彼等《かれら》にあたえるかは、先生自身が、一ばんよく知っていたのである。
 先生は、しんぼうづよく待った。待てば待つほど沈黙が探まった。しかし、こうした沈黙というものは、ある程度以上に深まるものではない。またそうながくつづくものでもない。というのは、だれも自分の考えを深めるために沈黙しているのではなく、ただ沈黙のやぶれるのをおたがいに待っているにすぎないような沈黙でしか、それはないのだから。――このことについても、先生は決して無知ではなかったのである。
 事実、三分とはたたないうちに、沈黙に倦怠《けんたい》を感じたらしい視線が塾生たちの間にとりかわされはじめた。すると、その視線にはげまされたように、ひとりの塾生が口をきった。
「ぼくは第五室ですが、さっき板木が鳴るまで真剣に話しあってみました。しかし、話がばら
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