け》の眼のように静かであたたかだった。
「もう時間だね。」
 と、先生は腕時計《うでどけい》を見て立ちあがりながら、
「しかし、今度のような時に、大河のような塾生をむかえたのは、非常にしあわせだったね。多分大河はいい緩衝地帯《かんしょうちたい》になってくれるよ。はっはっはっ。」
 次郎は笑わなかった。そして、田沼先生のあとについて広間を出ると、すぐ板木《ばんぎ》を鳴らしたが、その眼は何かを一心に考えつめているかのようであった。
 午後の行事は、これまでの例を破ってごくあっさりしていた。朝倉先生は、塾生たちが広間に集まると、簡単に「探検」の主旨《しゅし》を説明しただけで、さっそくそれにとりかからせた。また「探検」がすんでもう一度広間に集まった時にも、つぎのようなことをいっただけで、すぐ解散した。
「今日式場で、田沼先生なり私なりから話したこの塾の根本の精神と、たゞ今諸君が実際に見て来た探検の結果とを土台にして、これからのお互《たが》いの共同生活をどう組立てて行くか、それを今から相談したいと思うが、しかし、これだけの人数が、まだめいめいの頭を整理しないうちに、いきなり一堂に集まって相談しあってみたところで、大した収穫《しゅうかく》は得られないだろうと思う。で、ひとまずこの集まりは解散して、各室ごとに集まって、その下相談をすることにしたい。むろん、その下相談にしたところで、急にはまとまらないかもしれない。しかし、まとまらなければまとまらないでも結構だ。それで一人一人の頭に何程《なにほど》かの準備ができればいいのだから。……そのつもりで、ともかくも、いちおう各室ごとに、小人数で意見をたたかわしておいてもらいたい。そして、夕食後にはもう一度ここに集まって、みんなでじっくり話しあうことにしよう。その時には、私も私の考えを十分のべて見たいと思っているが、それはむろん一つの参考意見であって、決してそれを君らに押しつけるのではない。もっとも、あらかじめこれだけは断わっておきたい。それは、毎日朝食から中食《ちゅうじき》までの時間は講義にあててあるということだ。これには外来の講師の都合もあるので、時間を勝手に動かすわけには行かない。それ以外の時間は、みんなの合意によってどうにでも使えるし、なるだけお互いの創意を生かしたいと思う。要するに、ここの生活の根本になるものは、あくまでも友愛と創造の精神なのだから、それを忘れないで、各室で仲よく、しかも活発に頭をはたらかして、夕食後の集まりまでの時間を十分に生かしてもらいたい。」
 次郎の眼は、その話の間にも、注意ぶかく塾生たちの顔に注がれ、その動きからたえす何かを読もうとしていた。とりわけ大河無門はかれの注目の的だった。しかし、どの顔にも、これといって変わった表情は見られなかった。大河無門の近眼鏡の奥《おく》に光っている大きな眼は、特異な眼ではあったが、それもふだんと変わった表情をしているとは思えなかった。みんなは、ただかしこまって朝倉先生の言葉をきいているというにすぎないらしかった。
 次郎の張りつめていた注意力は、いくらか拍子抜《ひようしぬ》けの気味だった。
 かれはその日、田沼先生とふたたび顔をあわせる機会がなかった。塾生たちの「探検」の案内をしている最中に、先生が帰って行ってしまったので、見おくることもできなかったのである。朝倉夫人が、あとでかれに話したところによると、先生は、玄関を出がけに、
「友愛塾の関係者も、今日は軍から正式に自由主義者のレッテルをはられたわけですね。奥さんもその有力なメンバーですから、これからは何かと風当たりが強くなるかもしれませんよ。そのうち、憲兵なんていう、招かれざるお客もたずねて来るでしょう。ご迷惑《めいわく》ですね。」
 と、冗談めかしていい、朝倉先生と二人で、声をたてて笑ったそうである。

   五 最初の懇談会《こんだんかい》

「何だか、だらしがないね。やっぱり自由主義的だよ。」
 次郎が、夕食後、小用をたしたかえりに第一室の前を通りかかると、中から、すこししゃがれた声で、そんな言葉がきこえて来た。かれは思わず立ちどまって耳をすました。
「探検だなんていうから、よほどめずらしい設備でもあるのかと思うと、何もありゃあしないじゃないか。このぐらいの設備なら、どこの青年道場にだってあるよ。」

 同じ声である。次郎は自分の印象に残っている室員の顔の中から、声の主をさがしてみたが、まるで見当がつかなかった。
「そりゃあ、そうだね。」
 と、ちがった声が相づちをうった。それはしかし、大して気乗りのした相づちだとは思えなかった。すると、また、しゃがれた声が、
「探検だの、室ごとの相談だの、まったく時間の浪費《ろうひ》だよ。塾生活《じゅくせいかつ》の設計だなんていったって、は
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