ことだし、それは気にすることはない。大事なのは、そういう関係を先生も弟子も、どう生かすかを考えることだよ。」
 次郎はやはり考えこんでいた。田沼先生も何かしばらく考えるふうだったが、
「ところで、どうだね、今日の気持ちは? 式場では、いつもに似ず、まごついていたようだったが。……」
 次郎は、田沼先生が、わざわざ広間にやって来て自分に話しかけた目的はこれだな、と直感した。同時に、かれの胸の中では、感謝したいような気持ちと圧迫《あっぱく》されるような気持ちとが入りみだれた。かれはすぐには答えることができなかった。自分の感想を、あからさまにいうのが、何となくはばかられたのである。
 それに、今はもう式場や食卓で感じた不愉快な気持ちもかなりうすらいでいて、だれかにそれをぶちまけなければ治まらないというほどではなかった。大河無門が早くも田沼先生の注目をひいているということを知ったことで、かれの気分がかなり明るくなっていたうえに、さっきから二人で取りかわした問答の間から、自分の生き方に何か新しい方向を見いだしたような気になり、そのほうにかれの関心が高まりつつあったのである。
 かれには、これまでとはまるでちがった気持ちと態度とをもって、戦いに臨《のぞ》もうとする意志が、ほのかに湧《わ》きかけていた。むろんそれが決定的にかれの行動を左右するまでには、まだ数多くの試練を経《へ》なければならなかったであろう。しかし、少なくともかれの頭だけでは、そうした意志に生きることの必要が、かなりはっきりと理解されていたようであった。――真の勝利は、相手を憎《にく》み、がむしゃらに相手に組みつくだけでは、決して得られるものではない。自分みずからを充実《じゅうじつ》させることのみが、それを決定的にするのだ。友愛塾の精神を勝利に導く手段もまたそこにある。そして、友愛塾の内容を充実させるために、自分にとって必要なことは、友愛塾の助手としての自分の道を、ただまっしぐらにつき進みつつ、人間としての自分を充実させることであって、いたずらに荒田老や平木中佐の言動を気にし、かれらに対して感情的に戦いをいどむことではない――かれの頭は次第にそんな考えに支配されはじめていたのであった。
 かれが答えをしぶっていると、田沼先生は、その張りきった豊かな頬《ほお》をほころばせて言った。
「軍人にあのぐらいどなられると、ちょっとこわくなるね。大河は別として、塾生たちには、すいぶん強くひびいただろう。」
「ええ――」
 と、次郎はあいまいに答えたが、すぐ、
「それは、かなりひびいただろうと思います。」
「私の話も、朝倉先生の話も、すっかり嵐《あらし》に吹《ふ》きとばされた形だったが、こんなふうだと、今度の塾生は、いつもとは少し調子がちがうかもしれないね。」
「ええ、それはもう覚悟しています。」
「これからは、この塾の生活も、だんだんむずかしくなって来るだろう。しかし、いい試練だね。われわれにとってはむろんだが、塾生たちにとっても、こうした摩擦《まさつ》は決して無意味ではない。どうせ将来は、もっと大きなスケールで経なければならない試練だからね。」
 次郎は眼をふせて、畳《たたみ》の一点を見つめているきりだった。
「軍人のああした話に、盲目的《もうもくてき》に引きずられるのも険呑《けんのん》だが、感情的に反発《はんぱつ》するのも険呑だ。時代はそんな反発でますます悪くなって行くだろう。あんな話を、相手にしない、――といっては語弊《ごへい》があるが、冷静に批判しながら聞くような国民がもっと多くならないと、日本は助からないよ。」
 次郎はやはり眼をふせたまま、
「ぼく、さっきからそんなようなことを考えていたところなんです。」
「そうか。うむ。」
 と、田沼先生は大きくうなずいたが、
「しかし、理屈《りくつ》ではわかっていても、実際問題となると、またべつだからね。せいぜい自重《じちょう》してくれたまえ。今の日本では、青年たちは、何といったって、軍からの影響《えいきょう》を最も多く受けやすいし、そう簡単にはわれわれのいうことを受け付けないだろう。そんな場合に、あんまりあせって、塾生とにらみあいのような形になっては、友愛塾も台なしだよ。」
 塾生とにらみあう。――そんなことは、次郎がこれまで夢《ゆめ》にも考えたことのないことだった。しかし、幼年時代からの闘争心《とうそうしん》が、今でも折にふれて鼬《いたち》のように顔をのぞかせる自分を省《かえり》みると、今度の場合、それが全く起こり得ないことでもないような気がして胸苦しかった。
「ぼく、先生にご心配をかけないように、気をつけます。」
 かれは、やっとそれだけいって、田沼先生の顔を見た。田沼先生もかれの顔をみつめて、かるくうなずいたが、その眼は、仏《ほと
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