作ってもらいたいとは願っている。しかし、それは今でなくてもいいことなんだ。今のところは、何といったって中学を出て、上級の学校に進むように努力することがたいせつだよ。」
「ぼく、ほんとうは、先生が青年塾をお開きになるんなら、一生先生の下で働かしていただきたいと思っているんですけれど。」
次郎はいくらかはにかみながらも、哀願《あいがん》するように言った。
「ありがとう。それは私ものぞむところだ。実は、機会が来たら、私のほうから君に願いたいと思っていたところなんだ。しかし、それにはやはり一通り基礎的な勉強をしてもらわなくちゃあ。」
「勉強は独学でもできると思います。それよりか、最初から先生の下でいろんな体験を積むことがたいせつではないでしょうか。」
「塾の大先輩《だいせんぱい》になろうとでもいうのかね。はっはっはっ。」
と朝倉先生は愉快《ゆかい》そうに笑ったが、すぐ真顔《まがお》になり、
「なるほど、塾の気風を作るには、最初から君のような人にはいっていてもらえば大変ぐあいがいいね。これは、君のためというよりか、私にとってありがたいことなんだが。」
次郎は、眼をかがやかした。朝倉先生は、しかし、また急に笑いだして、
「ところで、塾はまだできあがっているわけではないんだよ。建築その他に、少なくも三か月は見ておかなければならないし、趣旨《しゅし》を宣伝したり、募集の手続きをしたりしていると、いよいよ塾生が集まって来るのは、早くて半年後になるだろう。あるいは、君が中学校を卒業したあとで、第一回目が始まるということになるかもしれない。とにかく、君の転校の手続きだけは早くすましておくことだよ。何だかお互いに青年塾の夢にすっかり興奮してしまって、現実を忘れていた形だね。はっはっはっ。」
夫人も次郎もつい笑いだしてしまった。
こんなふうで、次郎はとにもかくにもある私立中学に通いだした。むろん学校にとくべつの期待もかけていなかったし、したがって大した不満も感じなかった。むしろ、科目によっては、郷里の中学におけるよりも学力のある先生がいたので、勉強にはかえって実がはいるくらいであった。
そのうちに、塾堂の建築も次第《しだい》にはかどりだした。日曜には次郎もかかさず朝倉先生といっしょに下赤塚の駅におりたが、そのたびごとに、かれは、建物の位置とにらみあわせて、つつじその他の小さな樹木を幾本《いくほん》かずつ植えかえた。先生夫妻の住宅――その一室に次郎も自分の机をすえさしてもらうことになっていた――は、本館とは別棟《べつむね》にして、まず第一に着手されたが、その付近の小さな樹木は、ほとんどすべて次郎の手で整理され、南側には、いつの間にか小さな庭園らしいものさえできあがっていたのである。
住宅が完全にできあがったのは、その年の十月はじめだった。夫人と次郎とは、それでまた引越しさわぎに忙殺《ぼうさつ》されたが、それはいかにも楽しい忙《いそが》しさだった。荷物を作ったり、解いたりする間に、次郎は、「本田さんとは、よくよくの因縁《いんねん》ですわね」といったかつての夫人の言葉を、何度思いおこしたかしれない。それに夫人は、このごろ、いつとはなしに、かれを「本田さん」と呼ぶ代わりに「次郎さん」と呼ぶようになっていたので、かれは心の中で、「次郎さんとは、よくよくの因縁ですわね」と夫人の言葉を勝手にそう言いかえたり、また、自分はこれから夫人を「お母さん」と呼ぶことにしようか、などと考えてみたりして、ひとりで顔をあからめたこともあった。
できあがった住宅は、思いきり簡素だった。八|畳《じょう》に四畳半、それに玄関《げんかん》と便所とがついているきりだった。開塾後《かいじゅくご》は、食事は朝昼晩、塾生といっしょに本館でとることになっていたので、台所は四畳半の縁先《えんさき》に下屋《したや》をおろして当分間に合わせることになっていた。
引越し荷物は決して多いほうではなかったが、それでも、この手ぜまな家にはどうにも納《おさ》まりかねた。本だけでも相当だった。本館ができあがると、そこに先生専用の室が予定されていたし、また物置きになるような部屋も当然できるはずだったので、何とか始末のしようもあったが、それまでは極度《きょくど》に不便をしのぶほかなかった。で、結局、四畳半と玄関とは当分物置きに使うことにし、八畳一間を三人の共用にした。その結果、ひる間は一つの卓《たく》を囲《かこ》んで食事もし、本も読み、事務もとり、夜は卓を縁側《えんがわ》に出して三人の寝床《ねどこ》をのべるといったぐあいであった。次郎は、先生夫妻に対してすまないという気で一ぱいになりながらも、心の奥底《おくそこ》では、それが楽しくてならないのだった。里子《さとご》時代に、乳母《うば》の家族と狭《せま》く
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