るしい一室で暮《く》らしていたころの光景までが、おりおりかれの眼に浮《う》かんでいたのである。
 引越しがすんだあとでも、先生はとかく外出がちだった。おもな用件は、講師|陣《じん》の編成とか、助手や炊事夫《すいじふ》その他の使用人の物色《ぶっしょく》とかいうことにあったらしく、帰ってくるとその人選難をかこつことがしばしばだった。ことに講師陣の編成について苦労が多かったらしい。
「著書や世間の評判などをたよりにして、この人ならと思って会ってみると、思想傾向と人柄《ひとがら》とがまるでちぐはぐだったりしてね。知性と生活|情操《じょうそう》とがぴったりしている人というものは、あんがい少ないものだよ。」
 そんなことをいったりしたこともあった。
 先生が在宅の日には、よく夫人が外出した。それは寮母として参考になるような施設《しせつ》をほうぼう見学するためであった。また、その方面の参考書も、見つかり次第買って帰った。しかし、ふだんは先生の秘書役といったような仕事を引きうけ、また、先生の留守中は本館の工事のほうの相談にも応じていた。
 次郎は学校に通うので、まとまった仕事の手助けはあまりできなかったが、それでも家におりさえすれば、塾堂建設に役だつような仕事を何かと自分で捜《さが》しだして、それに精魂《せいこん》をぶちこんだ。畑も片っぱしから耕して種をまいた。鶏舎《けいしゃ》も三十|羽《ぱ》ぐらいは飼《か》えるようなのを自分で工夫《くふう》して建てた。こうしたことには、郷里でのかれの経験が非常に役にたった。そして、その年の暮れには、鶏《にわとり》に卵を生ませ、畑に冬ごしの野菜ものさえいくらか育てていたのである。
 かれは、上京以来、父の俊亮《しゅんすけ》にはたびたび手紙を書いた。それはすべて喜びにみちた手紙だった。恭一《きょういち》や大沢《おおさわ》や新賀や梅本《うめもと》にも、おりおり思い出しては、絵はがきなどに簡単な生活報告を書き送った。乳母のお浜《はま》には、郷里では久しく文通を怠《おこた》っていたが、いざ上京というときになって、ふと彼女《かのじょ》のことを思いおこし、妙《みょう》に感傷的な気分になった。で、くわしい事情はうちあけないで、単に東京に出て勉強することになったという意味のことだけ書きおくったが、それがきっかけになって、上京後も何度か絵はがきぐらいで便《たよ》りをした。そのほかにかれが手紙を書いたのは、正木一家と大巻一家とであった。正木の祖父母には、中学入学以来、自然接触がうすらいでいたが、幼時の思い出にはさすがに絶《た》ちがたいものがあり、ことに二人とももう八十に近い高齢《こうれい》なので、遠く隔《へだ》たったらいつまた会えるかわからないという懸念《けねん》もあった。で、上京前にはぜひ一度会っておきたいという気がしていたが、上京の理由を説明するのに気おくれがして、とうとう会わずに来てしまった。その謝罪の意味もふくめて、とくべつ長い手紙を書いたのである。大巻一家は、郷里では眼と鼻の間に住んでいて、こちらの事情は何もかも知りぬいており、上京前には、運平老《うんぺいろう》がわざわざかれのために「壮行会《そうこうかい》」を開いて剣舞《けんぶ》までやって見せてくれたりしていたので、手紙を書くのにも気は楽だった。しかし、その壮行会の席につらなった人たちの中に、恭一と道江《みちえ》という二人の人間がいて、何かにつけ睦《むつま》じく言葉をかわしていたことは、かれにとって消しがたい悩《なや》みの種になっていた。
「恭一さんは、大学はどちらになさるおつもり? 東京? 京都?」
「東京さ。」
「すると来年は次郎さんとあちらでごいっしょね。うらやましいわ。」
「道江さんは、女学校を卒業するの、さ来年だね。」
「ええ。」
「あと、どうする?」
「あたしも、東京に出て、もっと勉強したいわ。でも、うちで許してくれるかしら。」
「そりゃあ、話してみなけりゃあ、わからんよ。」
「恭一さんは賛成してくださる?」
「道江さんが本気で勉強する気なら、むろん賛成するさ。」
 次郎はそこまで回想しただけで、もう頭がむしゃくしゃして来るのである。しかも、そのあと、道江はだしぬけに、
「次郎さんも賛成してくださる?」
 と、質問をかれのほうに向けた。かれは、その時、
「う、うん、賛成してもいいね。」
 と、半ば茶化《ちゃか》したような調子で答えたが、それがゆとりのある茶化し方ではなく、むしろ虚《きょ》をつかれて、どぎまぎした醜態《しゅうたい》をかくすための苦しい方便でしかなかったことは、だれよりもかれ自身が一番よく知っている。その時、道江の顔にうかんだ変な笑い、それは自分に対する痛烈《つうれつ》な軽侮《けいぶ》の表現ではなかったのか。
 かれは大巻一家を思い出すと、かな
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