みこころ》」という言葉を口にしたが、その時だけは直立不動の姿勢になり、声の調子もいくぶん落ちつくのだった。しかし、佩剣の伴奏がもっとも激《はげ》しくなるのは、いつもその直後だったのである。
かれの意図《いと》が、塾の精神を徹底的《てっていてき》にたたきつけるにあったことは、もうむろん疑う余地がなかった。かれは、しかし、真正面から「友愛塾の精神がまちがっている」とは、さすがに言わなかった。かれはたくみに、――おそらく、かれ自身のつもりでは、きわめてたくみに、――一般論《いっぱんろん》をやった。そして、なおいっそうたくみに、――もっとも、この場合は、かれ自身としては、たくらんだつもりではなく、かれの信念の自然の発露《はつろ》であったかもしれないが、――「国体」とか、「陛下」とか、「大御心」とかいう言葉で、自分の論旨《ろんし》を権威《けんい》づけることに努力した。
「日本の国体をまもるためには、国民は、四六時中非常時局下にある心構《こころがま》えでいなければならない。恒久的任務と時局的任務とを差別して考える余裕《よゆう》など、少くともわれわれ軍人には全く想像もつかないことである。」
「大命を奉じては、国民は親子の情でさえ、たち切らなければならない。いわんや友愛の情をやである。」
「日本では、国民|相互《そうご》の横の道徳は、おのずから、君臣の縦《たて》の道徳の中にふくまれている。陛下に対し奉《たてまつ》る臣民の忠誠心が、すべての道徳に先んじ、すべての道徳を導き育てるのであって、友愛や隣人愛《りんじんあい》が忠誠心を生み出すのでは決してない。」
およそこういった調子であった。
次郎はしだいに興奮した。ひとりでに息があらくなり、両手が汗《あせ》ばんで来るのを覚えた。かれは、しかし、懸命《けんめい》に自分を制した。自分を制するために、おりおり、うしろから田沼先生と朝倉先生の顔をのぞいた。かんじんの二人の眼をのぞくことができなかったので、はっきりと、その表情を見わけることはできなかったが、のぞいたかぎりでは、二人とも、すこしも動揺《どうよう》しているようには見えなかった。かれはいくらか救われた気持ちだった。
かれの視線は、おのずと、朝倉夫人のほうにもひかれた。夫人の横顔は、いつもにくらべると、いくぶん青ざめており、その視線は、つつましく膝《ひざ》の上に重ねている手の甲《こう》におちているように思われた。かれは、朝倉夫人のそんな様子を見ると、つい眼がしらがあつくなって来るのだった。
かれは、しかし、そうしているうちに、いくらか自分をとりもどすことができ、眼を来賓席のほうに転じた。すると、そこには、当惑《とうわく》して天井《てんじょう》を見ている顔や、にがりきって演壇をにらんでいる顔がならんでいた。しかし、どの顔よりもかれの注意をひいたのは、相変わらず木像のように無表情な荒田老の顔と、たえず皮肉な微笑《びしょう》をもらして塾生たちを見わしている鈴田の顔であった。
鈴田の顔を見た瞬間、次郎は、自分にとってきわめてたいせつなことを、いつの間にか忘れていたことに気がついて、はっとした。中佐の言葉に対する塾生たちの反応《はんのう》、それを見のがしてはならない。できれば一人一人の反応をはっきり胸にたたみこんでおくことが、これから朝倉先生に協力して自分の仕事をやって行く上に何よりもたいせつなことではないか。
かれの視線は、そのあと、忙《いそが》しく塾生たちの顔から顔へとびまわった。どの顔もおそろしく緊張している。眼がかがやき、頬《ほお》が紅潮し、唇《くちびる》がきっと結ばれている。中佐のかん高い声と、佩剣《はいけん》の伴奏とが、電気のようにかれらの神経をつたい、かれらの心臓にひびき、かれらの全身をゆすぶっているかのようである。
次郎の興奮は、もう一度その勢いをもりかえした。しかもその勢いは、かれが中佐の声と佩剣の伴奏とから直接|刺激《しげき》をうける場合のそれよりも、はるかに強力だった。で、もしもかれが、塾生たちの顔の間に、ただ一つの例外的な表情をしている顔を見いだすことができなかったとすれば、かれはその興奮のために、すくなくとも、自分のすぐ前に腰をおろしている田沼先生と朝倉先生夫妻の注意をひくほどの舌打ちぐらいは、あるいはやったかもしれなかったのである。
ただ一つの例外の顔というのは、大河無門の顔であった。かれは半眼《はんがん》に眼を開いていた。それは内と外とを同時に見ているような眼であった。中佐の言葉の調子がどんなに激越《げきえつ》になろうと、佩剣の鞘《さや》がどんな騒音《そうおん》をたてようと、そのまぶたは、ぴくりとも動かなかった。かれは、椅子《いす》にこそ腰をおろしていたが、その姿勢は、あたかも禅堂《ぜんどう》に足を組み、感覚の世
前へ
次へ
全109ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング