界を遠くはなれて、自分の心の底に沈潜《ちんせん》している修道者を思わせるものがあった。
次郎の視線は、大河無門の顔にひきつけられたきり、しばらくは動かなかった。かれは何か一つの不思議を見るような気持ちだった。
(大河無門は、ぼくなんかにはまだとてもうかがえない、ある心の世界をもっているのだ。)
かれにはそんな気がした。その気持ちが、しだいにかれをおちつかせた。そして大河無門と荒田老とを見くらべてみる心のゆとりを、いつのまにか、かれにあたえていた。
かれの眼に映《えい》じた大河無門と荒田老とは、まさに場内の好一対《こういっつい》であった。荒田老は、平木中佐の所論の絶対の肯定者《こうていしゃ》として、怪奇《かいき》な魔像《まぞう》のように動かなかったし、大河無門は、その絶対の否定者として、清澄《せいちょう》な菩薩像《ぼさつぞう》のように動かなかったのである。
次郎は、これまでの不快な興奮からさめて、ある希望と喜びとに裏付けられた新しい興奮を感じはじめていた。そのせいか、中佐の狂気じみた言葉も、もう前ほどにはかれの耳を刺激しなくなっていたのである。
中佐は、最後に、いっそう声をはげまして言った。
「諸君にとってたいせつなことは、いかに生くべきかでなくて、いかに死ぬべきかだ。大命のまにまにいかに死ぬべきかを考え、その心の用意ができさえすれば、おのずからいかに生くべきかが決定されるであろう。くりかえして言うが、諸君は、楽しい生活などという、甘《あま》ったるい、自由主義的・個人主義的|享楽主義《きょうらくしゅぎ》に、いつまでもとらわれていてはならない。日本は今や君国のために水火をも辞さない勇猛果敢《ゆうもうかかん》な青年を求めているのだ。この要求にこたえうるような精神を養うことこそ、諸君がこの塾堂に教えをうけに来た唯一《ゆいいつ》の目的でなければならない。自分はあえて全軍の意志を代表して、このことを諸君の前に断言する。終わり!」
塾生たちの中には「終わり」という言葉をきくと同時に、機械人形のように直立したものがあった。その他の塾生たちは、理事長と塾長との式辞が終わったときに、顔をさげただけですました関係からか、さすがに立ちあがるのをためらった。しかし、どの顔も、何か不安そうに左右を見まわした。そして、直立した塾生たちを見ると、それにさそわれて、半ば腰をうかしたものも少なくはなかった。ただ大河無門だけは、そうしたざわめきの中で、その半眼にひらいた眼を、ながい夢《ゆめ》からでもさめたように、ゆっくり見ひらき、しずかに頭をさげて中佐に敬意を表したのだった。
次郎の眼は、いつまでも大河無門にひきつけられていた。そのために、かれは、中佐がどんな顔をして塾生たちの「不規律」な敬礼をうけ、どんな歩きかたをして自分の席に戻《もど》って行ったかを観察することができなかったし、また、閉式を告げるかれの役割を果たすのに、いくらか間がぬけたのではないかと、かれ自身心配したぐらいであった。
式が終わると、恒例《こうれい》によって、塾生と中食をともにすることになっていた。今日は朝倉先生の式辞がいつもより長かったうえに、平木中佐の祝辞がそれ以上に長かったため、時刻もかなりおくれていたし、一同式場を出るとすぐ、広間に用意されていた食卓《しょくたく》についた。今日は荒田老もめずらしく上機嫌《じょうきげん》で、「わしはめしはたくさんです」などと無愛想《ぶあいそう》なことも言わず、自分からすすんで平木中佐をさそい、その席につらなったのである。
食卓では、荒田老がすすめられるままに来賓席の上座《かみざ》につき、平木中佐がその横にならんだ。ごちそうは、これも恒例で、赤飯に、小さいながらも、おかしら付きの焼鯛《やきだい》、それに菜《な》っ葉《ぱ》汁《じる》と大根なますだった。
朝倉先生の「いただきます」という合い図で、みんなが箸《はし》をとりだすと、平木中佐がすぐ荒田老に言った。
「なかなかしゃれていますね、おかしら付きなんかで。」
荒田老は、黒眼鏡すれすれに皿《さら》を近づけ、念入りに見入りながら、
「小鯛《こだい》らしいな。なるほどこれはしゃれている。しかし若いものは、これでは食い足りんだろう。」
「ええ、やはり青年には質よりも量でしょうね。」
二人の話し声は、かなりはなれたところにすわっていた次郎の耳にもはっきりきこえた。かれは、それも塾に対する皮肉だろうと思った。そして、食卓につくとすぐそんなことを言いだした二人のえげつなさに、ことのほか反感を覚えた。
「しかし、気は心と言いますか、こうして祝ってやりますと、やはり青年たちにはうれしいらしいのです。」
そう言ったのは田沼先生だった。ふっくらした、あたたかい言葉の調子だった。すると朝倉先生が冗談《じょ
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