わかっていない国民が非常に多い。諸君は、友愛塾における生活中、時局的任務に関する研究にも、むろん大いに力を注いでもらわなければならないが、しかし、いっそうかんじんなのは、恒久的任務の研究であり、その研究の結果を共同生活に具体化することである。それが不十分では、時局的任務に対する熱意も、根なし草のように方向の定まらないものになってしまうであろうし、時としては、かえって国家を危険におとし入れるおそれさえあるのである。」
 また、朝倉塾長は、
「これまで、日本人は、上下の関係を強固にするための修練はかなりの程度に積んで来た。しかし、横の関係を緊密《きんみつ》にするための修練は、まだきわめて不十分である。私は、もし日本という国の最大の弱点は何かと問われるならば、この修練が国民の間に不足していることだ、と答えるほかはない。というのは、どんなに強い上下の関係も、横の関係がしっかりしていないところでは、決してほんとうには生かされないからである。そこで、私は、これからの諸君との共同生活を、主として横の関係において、育てあげることに努力したいと思う。むしろ最初は、まったく上下の関係のない状態から出発し、横の関係の生長が、おのずからみごとな上下の関係を生み出すところまで進みたいと思っている。」
 といったような意味のことから話しだし、いつもなら、午後の懇談会《こんだんかい》で話すようなことまで、じっくりと、かんでふくめるように話をすすめていったのであった。
 次郎は、きいていてうれしかった。田沼先生も、朝倉先生も、ちゃんと打つべき手は打っていられる。これでは、中佐も打ち込む隙《すき》が見つからないだろう。そんなふうにかれは思ったのである。
 朝倉先生が壇《だん》をおりると、つぎは来賓の祝辞だった。次郎はさすがに胸がどきついた。かれは、昔《むかし》の武士が一騎打《いっきう》ちの敵にでも呼びかけるような気持ちになり、一度息をのんでから、さけぶようにいった。
「来賓祝辞――陸軍省の平木中佐|殿《どの》。」
 平木中佐は声に応じてすっくと立ちあがった。そしてまずうしろの荒田老の方に向きなおって敬礼した。
 荒田老は、しかし、眼がよく見えないせいか、黒眼鏡の方向を一点に釘《くぎ》づけにしたまま、びくとも動かなかった。一瞬《いっしゅん》、場内の空気が、くすぐられたようにゆらめいた。といっても、だれも声をたてて笑ったわけではなかった。笑うにはあまりにまじめずぎる光景だったし、しかも、その当事者が二人とも、場内での最も重要な人物らしく見えていただけに、微笑《びしょう》をもらすことさえ、さしひかえなければならなかったのである。しかしまた同じ理由で、おかしみはかえって十分であった。したがって、それをこらえるしぐさで、場内の空気がゆらめいたのに無理はなかったのである。とりわけ次郎にとっては、それがかれの最も緊張《きんちょう》していた瞬間《しゅんかん》のできごとであったために、そのおかしみが倍加されていた。かれは唇《くちびる》をかみ、両手をにぎりしめて、こみあげて来る笑いをおしかくしながら、中佐の表情を見まもった。
 中佐は、その口もとをわずかにゆがめて苦笑した。それは場内で見られたただ一つの笑いだった。その笑いのあと、かれはほかの来賓たちのほうは見向きもしないで、靴《くつ》と拍車《はくしゃ》と佩剣《はいけん》との、このうえもない非音楽的な音を床板《ゆかいた》にたてながら、壇《だん》にのぼった。
 次郎の気持ちの中には、もうその時には、どんなかすかな笑いも残されてはいなかった。かれは、中佐の青白い横顔と、塾生たちのかしこまった顔とを等分に見くらべながら、息づまるような気持ちで中佐の言葉を待った。
 中佐は、しかし、あんがいなほど物やわらかな調子で口をきった。そして、まず、田沼理事長と朝倉塾長の青年教育に対する努力を、ありふれた形容詞をまじえて賞讃《しょうさん》した。それは決して、真実味のこもったものではなく、いちおうの礼儀《れいぎ》にすぎないものであることは明らかであったが、次郎はそれでも、この調子なら、そうむき出しに塾の精神をけなしつけることもあるまい、という気がして、いくぶん緊張をゆるめていた。
 しかし、中佐のそんな調子は三分とはつづかなかった。かれはやがて世界の大勢を説き、日本の生命線を論じた。そしてその結論としての国民の覚悟《かくご》について述べだしたが、もうそのころには、かれはかなり狂気《きょうき》じみた煽動《せんどう》演説家になっていた。さらに進んで青年の修養を論ずる段になると、かれの佩剣の鞘《さや》が、たえ間なく演壇の床板をついて、勇《いさ》ましい言葉の爆発《ばくはつ》に伴奏《ばんそう》の役割をつとめた。かれはしばしば「陛下《へいか》」とか「大御心《おお
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