た。
四 入塾式の日
式は予定どおり、十時きっかりにはじまった。
来賓席《らいひんせき》の一番上席には、平木中佐が着席することになった。中佐は最初、その席を荒田老にゆずろうとした。しかし荒田老は、
「今日は、あんたが主賓《しゅひん》じゃ。」
と、叱《しか》るように言って、すぐそのうしろの席にどっしりと腰《こし》をおろし、それからは中佐が何と言おうと、木像のようにだまりこんで、身じろぎもしなかった。中佐はかなり面くらったらしく、すこし顔をあからめ、何度も荒田老に小腰《こごし》をかがめたあと、いかにもやむを得ないといった顔をして席についたが、それからも、しばらくは腰が落ちつかないふうだった。
しかし、式がいよいよはじまるころには、もう少しもてれた様子がなく、塾生《じゅくせい》たちをねめまわすその態度は、むしろ傲然《ごうぜん》としていた。
来賓席の反対のがわには、田沼《たぬま》理事長、朝倉塾長、朝倉夫人の三人が席をならべていた。次郎はそのうしろに位置して、式の進行係をつとめていたが、かれの視線は、ともすると平木中佐の横顔にひきつけられがちだった。かれの眼《め》にうつった中佐の顔には、多くの隊付き将校に見られるような素朴《そぼく》さが少しもなかった。その青白い皮膚《ひふ》の色と、つめたい、鋭《するど》い眼の光とは、むしろ神経質な知識人を思わせ、また一方では、勝ち気で、ねばっこい、残忍《ざんにん》な実務家を思わせた。次郎は、中佐の横顔を何度かのぞいているうちに、子供のころ、話の本で見たことのある、ギリシア神話のメデューサの顔を連想していた。
中佐の眼は、理事長と塾長とが式辞をのべている間、塾生のひとりびとりの表情を、注意ぶかく見まもっているかのようであった。式辞の趣旨《しゅし》は、二人とも、いつもとほとんど変りがなかった。ただ理事長は、つぎのような意味のことを、特に強張した。
「国民の任務には、恒久的《こうきゅうてき》任務と時局的任務とがある。このうち、時局的任務は、時局そのものが、あらゆる機会に、あらゆる機関を通じて、声高く国民にそれを説いてくれるので、なに人《びと》もそれに無関心であることができない。ところが、恒久的任務のほうは、時局が緊迫《きんぱく》すればするほど、とかく忘れられがちであり、現に今日のような時代では、何が真に恒久的任務であるかさえ
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