り、備考欄には、「青年団生活には直接の経験なきも興味を有す」と何だかあいまいなことが書いてあった。
「これは本人から書いて来たとおりなんです。先生もそれでいいだろうとおっしゃったものですから。」
 次郎はそう言って笑った。むろんこれには事情があったのである。
 実は、大河無門は、一昨年の春京都大学の哲学科を出ると、すぐ母校である千葉県の中学校に奉職《ほうしょく》したが、もともと、いわゆる教壇的《きょうだんてき》教育には大した興味も覚えず、もっと実生活にまみれた教育をやって見たいという希望を、たえず持ちつづけていた。そのうちに、たまたま友愛塾のことをききこみ、幸い任地から一日で往復できる距離《きょり》でもあったので、ある日曜――それは一か月ばかりまえのことだったが――わざわざ朝倉先生をたずねて来て、塾長室で二人っきりで一時間あまりも話しこんだあと、すぐその場で入塾を決意し、その希望を申し出たのであった。
 もし現職のままでは入塾ができないとすれば、すぐ辞表を出してもいいとさえかれは言ったのである。
 朝倉先生は、話しているうちに、かれの決意がなみなみならぬものであるのを見てとった。同時にかれの人物に一種の重量感を覚えた。その重量感は、決してかれの言葉つきや態度から来るものではなかった。そうした表面にあらわれる言動の点では、かれはむしろ率直《そっちょく》にすぎ、どこやらにおかしみさえ感じられるほどであった。しかし、それにもかかわらず、かれの人がら全体には、何とはなしに、どっしりしたものが感じられたのである。朝倉先生は、それを大河の人間愛の深さや思索《しさく》の深さがそのまま実践力の強さになっているからであろう、というふうに判断したのだった。
 しかし、先生は大河の人物に重量感を覚えれば覚えるほど、かれの入塾について、答えをしぶった。それは、自分の過去の経験から、かれのような人物をながく中等教育にとどめておきたいという気持ちからでもあったが、それよりも当面の問題として、かれを友愛塾の塾生としてむかえることに、ある不安が感じられたからであった。すべての点で一般《いっぱん》の青年とはあまりにもへだたりのある人物が、指導者としてならとにかく、一塾生としてはいって来るということが、塾の性質上、はたしていいことかどうか。みんなが、貧しいながらも、それぞれの創意と工夫とをささげあって
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