風が吹《ふ》きぬけて行くような心地が、かれにはしたのである。
同時にかれはきわめて当然の事として、かれ自身がその青年塾の最初の塾生になる事を考えていた。朝倉先生に師事しつつ、塾生の立場から塾風《じゅくふう》樹立《じゅりつ》の基礎固《きそがた》めに努力し、しかもしばしば田沼という大人格者に接して親しく言葉をかわしている自分を想像すると、胸がおどるようだった。
朝倉先生は、そのあと、計画中の青年塾について、あらましつぎのようなことを二人に話した。
場所は東京の郊外で、東上線の下赤塚《しもあかつか》駅から徒歩十分内外の、赤松《あかまつ》と櫟《くぬぎ》の森にかこまれた閑静《かんせい》なところである。敷地《しきち》は約五千|坪《つぼ》、そのうち半分は、すぐにでも菜園につかえる。さる老実業家が自分の隠居所《いんきょじょ》を建てるつもりで、いろいろの庭木《にわき》なども用意し、ことに、千本にも近いつつじを植え込《こ》んでおいたところなので、花の季節になると、錦《にしき》をしいたような美観を呈する。
隠居所の建築は、老実業家の急死で取りやめになった。相続者はその追善《ついぜん》のために、だれか信頼《しんらい》のできる人で、精神的な事業に利用したいという人があったら、土地だけでなく、相当の建築費をそえて寄付したいという意向をもらしていた。それをある人が田沼さんの耳に入れた。田沼さんは、満州事変以来日本の流行のようになっている塾風教育が、人間性を無視した、強権的な鍛練《たんれん》主義一点ばりの傾向《けいこう》にあるのを深く憂《うれ》えていた際だったので、すぐそれを自分の新しい構想に基づく青年塾に利用したいと考えた。しかし、それには、自分と思想傾向を同じくし、かつ専心その指導に任じてくれる人がなければならない。自分自身でやって見たいのは山々だが、各方面に関係の多いからだでは、それが許されないし、ことに最近は自分が中心になって、憲政擁護《けんせいようご》と政治|浄化《じょうか》の猛《もう》運動を展開している最中なので、それから手をひくわけには絶対に行かない。そんなことで、内々適任者を物色《ぶっしょく》していたところだった。そこへ、たまたま朝倉先生の五・一五事件批判の舌禍《ぜっか》事件が発生し、つづいて教職辞任となり、そのことで二人の間に二三回手紙をやり取りしている間に、どちらも願っ
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