《あいつう》ずるところがあるからなのかもしれない。さらに立ち入って考えてみるなら、自分の現在の生活を幸福と感じつつも、まだ心の底に燃えつづけている道江への恋情《れんじょう》、恭一に対する嫉妬《しっと》、馬田に対する敵意、曽根少佐や西山教頭を通して感じた権力に対する反抗心《はんこうしん》、等々が、「歎異抄」を一貫して流れている思想によって、煩悩熾盛《ぼんのうしじょう》・罪悪深重《ざいあくしんちょう》の自覚を呼びさます機縁《きえん》となっているせいなのかもしれない。すべてそうしたことは、かれのこれからの生活の事実に即《そく》して判断するよりほかはないであろう。
で、私は、過去三年半のかれの生活の手みじかな記録につづいて、かれのこれからの生活を、もっとくわしく記録して行くことにしたいと思っている。
二 ふたつの顔
次郎は今朝から事務室にこもって、第十回の塾生名簿《じゅくせいめいぼ》を謄写版《とうしゃばん》で刷っていたが、やっとそれが刷りあがったので、ほっとしたように火鉢《ひばち》に手をかざした。しかし、火鉢の炭火《すみび》はもうすっかり細っていた。謄写インキでよごれた指先が痛いほどつめたい。
塾堂の玄関《げんかん》は北向きで、事務室はその横になっているので、一日|陽《ひ》がささない。それに窓の近くに高い檜《ひのき》が十本あまりも立ちならんでいて青空の大部分をかくしている。つるつるに磨《みが》きあげられた板張りの床《ゆか》が、うす暗い光線を反射しているのが、寒々として眼《め》にしみるようである。
かれは火鉢に炭をつぎ足そうとしたが、思いとまった。そして、刷りあげた名簿をひとまとめにしてかかえこむと、すぐ中廊下《なかろうか》をへだてた真向かいの室にはいって行った。そこは食堂にもなり、座談会や、そのほかのいろいろの集まりにも使われる畳敷《たたみじ》きの大広間なのである。
事務室からこの室にはいって来ると、まるで温室にでもはいったようなあたたかさだった。午前十時の陽が、磨硝子《すりガラス》をはめた五間ぶっとおしの窓一ぱいに照っており、床《とこ》の間《ま》の「平常心」と書いた無落款《むらっかん》の大きな掛軸《かけじく》が、まぶしいほど明るく浮き出している。
次郎は、かかえて来た刷り物を窓ぎわの畳の上に置いて、硝子戸を一枚あけた。霜《しも》に焼けたつつじの植《う
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