静寂にかえった。
 次郎は深いため息に似た息を一つつくと、カーテンを思いきり広くあけ、机の上の電気スタンドを消した。そして、外の光でもう一度「歎異抄」のページに眼をこらした。
 机の上の小さな本立てには、仏教・儒教《じゅきょう》・キリスト教の経典類や、哲人《てつじん》の語録といった種類のものが十冊あまりと、日記帳が一冊、ノートが二三冊たててあるきりである。次郎は、どういう考えからか、一月《ひとつき》ばかりまえに、自分の蔵書《ぞうしょ》の中から、それだけの本を選んで座右におき、ほかはみんな押《お》し入れにしまいこんでしまったのであるが、このごろでは、そのわずかな本のいずれにもあまり親しまないで、ほとんど「歎異抄」ばかりをくり返し読んでいるのである。
          *
 次郎が郷里の中学校を追われてから、もうかれこれ三年半になる。父の俊亮《しゅんすけ》が退学の事情をくわしく書いて朝倉先生に出してくれた手紙の返事が来ると、かれはすぐ上京して先生の大久保の仮寓《かぐう》に身をよせた。先生の上京からかれの上京までに二十日とは日がたっていなかったので、かれが着京したころには、先生自身もまだ十分にはおちついていず、運送屋から届けられたままの荷物が、玄関《げんかん》や廊下《ろうか》などにごろごろしていた。次郎は、はじめの十日間ばかりは、朝倉夫人と二人で、毎日その整理に没頭《ぼっとう》した。
「本田さんとは、よくよくの因縁《いんねん》ですわね。同じ学校を追われた先生と生徒とが、また同じ家に住むなんて……」
 次郎を東京駅にむかえてくれた朝倉夫人は、電車に乗って腰《こし》をかけると、すぐしみじみとそういったが、次郎は、荷物を整理しながらも、夫人が心の中でたえず同じ言葉をくり返しているような気がして、うれしくてならないのだった。
 先生は、毎日外出がちだった。帰りも、たいていは夜になってからで、夕食をともにすることもまれだった。たまに家におちつく日があっても、夫人とも、次郎とも、めったに口をきかず、何か考えこんでは、心にうかんだことをノートに書きつけるといったふうであった。
 ところが、荷物もあらましかたづき、階下の六|畳《じょう》二間を先生の書斎と茶の間兼食堂に、二階の四畳半を次郎の部屋にあて、夫人の手で簡素《かんそ》ながらも一通りの装飾《そうしょく》まで終わったころになって、先
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