を幾本《いくほん》かずつ植えかえた。先生夫妻の住宅――その一室に次郎も自分の机をすえさしてもらうことになっていた――は、本館とは別棟《べつむね》にして、まず第一に着手されたが、その付近の小さな樹木は、ほとんどすべて次郎の手で整理され、南側には、いつの間にか小さな庭園らしいものさえできあがっていたのである。
 住宅が完全にできあがったのは、その年の十月はじめだった。夫人と次郎とは、それでまた引越しさわぎに忙殺《ぼうさつ》されたが、それはいかにも楽しい忙《いそが》しさだった。荷物を作ったり、解いたりする間に、次郎は、「本田さんとは、よくよくの因縁《いんねん》ですわね」といったかつての夫人の言葉を、何度思いおこしたかしれない。それに夫人は、このごろ、いつとはなしに、かれを「本田さん」と呼ぶ代わりに「次郎さん」と呼ぶようになっていたので、かれは心の中で、「次郎さんとは、よくよくの因縁ですわね」と夫人の言葉を勝手にそう言いかえたり、また、自分はこれから夫人を「お母さん」と呼ぶことにしようか、などと考えてみたりして、ひとりで顔をあからめたこともあった。
 できあがった住宅は、思いきり簡素だった。八|畳《じょう》に四畳半、それに玄関《げんかん》と便所とがついているきりだった。開塾後《かいじゅくご》は、食事は朝昼晩、塾生といっしょに本館でとることになっていたので、台所は四畳半の縁先《えんさき》に下屋《したや》をおろして当分間に合わせることになっていた。
 引越し荷物は決して多いほうではなかったが、それでも、この手ぜまな家にはどうにも納《おさ》まりかねた。本だけでも相当だった。本館ができあがると、そこに先生専用の室が予定されていたし、また物置きになるような部屋も当然できるはずだったので、何とか始末のしようもあったが、それまでは極度《きょくど》に不便をしのぶほかなかった。で、結局、四畳半と玄関とは当分物置きに使うことにし、八畳一間を三人の共用にした。その結果、ひる間は一つの卓《たく》を囲《かこ》んで食事もし、本も読み、事務もとり、夜は卓を縁側《えんがわ》に出して三人の寝床《ねどこ》をのべるといったぐあいであった。次郎は、先生夫妻に対してすまないという気で一ぱいになりながらも、心の奥底《おくそこ》では、それが楽しくてならないのだった。里子《さとご》時代に、乳母《うば》の家族と狭《せま》く
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