うだん》まじりの調子でそれに言い足した。
「これまでの塾生の日記や感想文を見ますと、そのことがふしぎなぐらいはっきりあらわれていましてね。それで、つい、多少の無理をしても、入塾式の日には小鯛を用意することにしているんです。」
「しかし、お祝いのお気持ちなら、赤飯だけでたくさんでしょう。そうご無理をなさらんでも。」
 中佐も冗談めかした調子で言ったが、その頬《ほお》には、かすかに冷笑らしいものがただよっていた。
「おっしゃるとおりです。」
 と、朝倉先生はしごくまじめにうけた。しかしすぐまた冗談まじりに、
「ただ塾生たちには、おかしら付きの鯛というものが妙《みょう》に印象に残るらしいので、ついそれに私たちが誘惑《ゆうわく》されてしまうのです。それも教育の一手段だという口実もありましてね。はっはっはっ。」
「甘いですな。」
 と、荒田老が横からにがりきって言った。
 まわりの来賓たちが、それで一せいに笑い声をたてたが、それがその場の空気をまぎらすための作り笑いだったことは明らかだった。
「塾長はそうした甘いところもありますが、根は辛《から》い人間ですよ。実は辛すぎるほど辛いんです。甘いところを見せるのは辛すぎるからだともいえるんです。油断はなりません。」
 田沼先生がそう言って笑った。それでまた来賓たちも笑ったが、今度は救われたといったような笑い方であった。平木中佐と鈴田とは変に頬をこわばらせていた。荒田老は相変わらず無表情だったが、無表情のまま、
「田沼さんは、やはり逃《に》げるのがうまい。まるで鰻《うなぎ》のようですな。」
 もう一度笑いが爆発《ばくはつ》した。しかしだれの笑い声も、いかにも苦しそうだった。
「荒田さんにあっちゃあ、かないませんな。」
 と、田沼先生は、そのゆたかな頬をいくらか赤らめて苦笑したが、そのあと、話題をかえるつもりか、急に思い出したように言った。
「それはそうと、荒田さんは、このごろは禅《ぜん》のほうはいかがです。相変わらずおやりになっていらっしゃいますか。」
「ふっふっふっ。」
 と、荒田老は、あざけるように鼻で笑ったが、
「禅は私の生活ですからな。毎日ですよ。」
「毎日だと、おかよいになるのが大変でしょう。このごろは、どちらのお寺で?」
「すわるのに寺はいりませんな。」
「すると、お宅で?」
「うちでもやりますし、どこででもやります。こ
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