してからも、黒田先生はなかなか口をきかなかった。そして、じっとテーブルの一点を見つめていたが、二三分もたったころ、やっと思いきったように言った。
「きのうは大変な失敗をやってくれたね。」
「すみません。」
 と、次郎は眼をふせた。が、すぐ、
「しかし、あれでけりがついて却《かえ》ってよかったと思っているんです。」
「けりがついたっていうと?」
「僕、退学になるんでしょう。」
 黒田先生は眼を見はった。次郎は、その眼に出っくわすと、かえって気の毒そうに、自分の視線をおとし、
「僕、もうこないだから、この学校には居られないような気がしていたんです。」
「どうして?」
「何だが僕の良心がゆるさなかったんです。」
「良心が? 何かほかにわるいことでもしていたかね。」
「そんなことありません。僕、そんな意味で言っているんではないんです。」
「じゃあ、どうなんだ。」
「僕は――」
 と、次郎はしばらくためらっていたが、
「僕は、不正な権力の下で勉強するのが、不愉快で仕方がなかったんです。」
 黒田先生は、もう一度眼を見張った。そして永いこと次郎を見つめたあと、ふうっと大きな息を吐き、そのまま眼をつぶってしまった。
 どちらからも口をきかない時間が、おおかた五分間もつづいた。次郎は何か悲しい気がした。宝鏡先生の事件のおり、この室で朝倉先生に訓戒された時のことがいつの間にか思い出されて来た。すると、朝倉先生の澄んだ眼が、そして最後のあの険しい眼が、はっきりうかんで来た。彼は、もう声をあげて泣きたいような気持だった。
 黒田先生は、やっと自分で自分を励ますように、
「君がそんなふうに考えているんなら、私はもう何も言う事はない。いや、何も言う資格はないといった方が適当かも知れないね。先生はみんな弱い。私もむろん弱い。ほんとうに強いのは朝倉先生だけだったんだ。その先生ももう去られたし、君らも淋しいだろうね。」
 次郎の眼からは、とうとう涙がこぼれ出した。
「先生、僕、生意気言ってすみません。ゆるして下さい。」
 彼はそう言うと、テーブルに顔をふせてしまった。
「許してもらわなければならんのは、私だよ。」
 黒田先生は、いきなり手をのばして、次郎の肩をつかみながら言った。その眼にも、もう涙がにじんでいた。
 次郎はしばらくして顔をあげたが、
「先生だけにでも、僕の気持、よくわかっていただいて、僕はうれしいのです。もういつ処分されてもいいんですから、校長室につれていって下さい。」
「校長室になんか、行かなくてもいいんだ。君が得心《とくしん》してくれさえすれば、それでいいんだから。」
「しかし、校長先生から言い渡しがあるんでしょう。」
「言い渡しなんかないよ。諭旨退学ということになっているんだ。」
「諭旨――すると僕の方から退学願が出せるんですね。」
 次郎は眼をかがやかした。形式だけでも自発的に退学が出来るということが、妙にうれしかったのである。
「そうだよ。それもきょうあすでなくてもいい。もし近いうちに転校先でも見つかるようだったら、その方の手続きをしてもいいんだ。」
「それが出来るんでしたら、僕、朝倉先生にお願いしてみたいんです。」
「それがいい。私からもお願いしてみよう。東京には私立も沢山あるしね。」
 次郎は、もう処罰されるために呼び出された生徒のように見えなかった。
 黒田先生は淋しい笑顔になって立ち上りながら、
「じゃあ、君、ここでしばらく待っていてくれたまえ。君のことだから、ひとりで帰っても大丈夫だとは思うが、きょうはやはりお父さんといっしょに帰ってもらうことにしよう。お父さんは、実は、もうさっきから、学校にお見えになっているんだ。」
 次郎は、さすがにはっとしたように顔をあげて、室を出て行く黒田先生のあとを見おくった。
 そのころ、俊亮は校長室で、校長、西山教頭、曾根少佐の三人を相手に対談していたのだった。
 彼は、けさ、次郎がうちを出ると間もなく、学校からの呼出状をうけとって出て来たのであるが、先ず黒田先生から懇談的に、つづいて校長室で校長自身から極《きわ》めて用心ぶかく、次郎の諭旨退学の理由を説明されたのである。校長室には西山教頭も立ち会っていた。俊亮は、黒田先生とはわだかまりなく話が出来たが、校長からの説明の時には一言も口をきかず、ただ微笑しているだけだった。そして説明をきき終っても納得したのか、しないのか、一向要領を得ないような顔をして、かなり永いことだまっていた。校長は、それがよほど心配だったらしく、「これは全職員にはかりまして、一人の異議もなく決定いたしましたことで。」とか、「何分多数の生徒をお預りいたしています関係上、心ならずもこういうことになりました次第で。」とかいろいろそういったことをならべ立てた。
 俊亮はそんな言葉に対しても、ほとんど聞き流すような態度でいたが、おしまいに、ひょいと忘れものでも思い出したかのように言った。
「配属将校の方、曾根少佐と仰しゃいましたかね。――その方にちょっとお目にかからしていただけませんでしょうか。」
 校長は鼻をぴくりと上にすべらせて、西山教頭を見た。すると、西山教頭が、
「配属将校は生徒のことでは直接責任がないんです。処分は学校としてやるんですから。」
「むろん、そうだろうと存じます。」
 と、俊亮は西山教頭の方に眼をうつして、
「ですから、次郎の処分について私は配属将校の方にとやかく申そうというのではありません。」
「するとどういうご用件で?」
「次郎という人間をどうご覧になっているか、それを直接おききしたいのです。」
「それは、校長からさきほどおつたえしました通りで、あらためておききになる必要はないと存じますが。」
「私は、直接おききしたいと申上げているのです。」
「すると、校長をご信用なさらない、というわけですか。」
「信用するとか、しないとかいう問題ではありません。人の子の親として、一度、直接お会いして承《うけたまわ》っておきたいのです。」
 俊亮の態度は厳然としていた。
 西山教頭は、校長とちょっと眼を見あったあと、変に言葉の調子をやわらげ、
「しかし、何分、ほかの職員とはちがいますので、生徒の処分問題などで、父兄の方に直接会っていただくというようなわけには参りにくい点もありますし……」
「学校の一職員としてではなく、人間としてお会い下さるというわけには参りませんか。」
「どうも――」
 と、西山教頭は、わざとらしく笑って頭をかきながら、
「そんなふうにおっしゃられると、いよいよ事が大げさになるような気もいたしますが……」
「少しも大げさになることはありません。まじめなことではありますがね。」
「どうも――」
 と、西山教頭は、今度は冷笑に似た苦笑をもらした。すると、俊亮はきっとなって、
「いやしくも、次郎という一人の人間に、新しい運命、――と申しては或いは大げさになるかも知れませんが――よかれあしかれ一つの新しい方角をお与え下すった方に、親としての私が直接お会いしたいと申すのを、先生はまじめでないとお考えでしょうか。」
 西山教頭の三角形の眼が急に引きしまった。校長の鼻は上にすべったきり動かない。
 しばらく沈默がつづいたあと、西山教頭はひとりで何かうなずいたが、
「いや、それほど仰しゃるなら、とにかく一応配属将校にご希望をお伝えしてみましょう。しかし、お会い願えるとしても、それはあくまでも学校の一職員としてではありませんから、その点十分おふくみ願って置きます。」
 そう言って校長室を出て行ったが、間もなく、曾根少佐といっしょに何か高笑いしながらもどって来た。
 曾根少佐は室にはいるとすぐ、
「やあ、本田次郎君のお父さんですか。」
 と、いかにもわだかまりがないといった調子で、俊亮に言葉をかけた。そして、俊亮が立ちあがって挨拶をかえしているうちに、もうどさりと椅子に膝をおろし、
「いや、今度は次郎君はまことにお気の毒な事になりました。しかし見どころのある青年ですから、心機一転すると却っていい結果になるかも知れません。」
 俊亮は、しばらくの間、まじまじと少佐の顔を見まもっていたが、
「そうでしょうか。あなたも見どころがあるとお感じでしょうか。」
 少佐は、「あなたも」と言われたのに、ちょっと変な気がしたらしく、眼をぎろりとさせたが、
「ええ、たしかに見どころはありますね。あれでもう少し思慮が深いと、こんなことにもならなかったろうし、私としては、むしろ校風|刷新《さっしん》のために、片腕になって仂いてもらいたいとさえ思っていたぐらいなんですがね。」
 俊亮は微笑しながら、
「なるほど。で、見どころと申しますと?」
「非常に気が強いところです。こうと思いこむと、なかなかあとへはひかないたちですね。」
「たしかに親の目から見てもそういう点はあります。同時に、相当思慮も深いように思いますが、そうではありますまいか。」
「いや、その点はどうも。……もっとも、かなり策士《さくし》らしい面もありますから、それを思慮深いといえば格別ですが。」
「策士?」と、俊亮はちょっと意外だといった顔をしたが、すぐうなずいて、
「いや、なるほどそういう点もたしかにありましょう。しかし、このごろでは、あまり筋のとおらない策は用いないように思いますが、いかがでしょう。朝倉先生の問題でも、初めから終りまで、一|途《ず》に筋を通そうとして細かく頭を使っていたようですし、おとといお宅にお伺いしました時も、自分の信じていることの筋を通すために、つい失礼なことも申上げましたように私には思われますが。」
 曾根少佐は、それまで多寡《たか》をくくったような調子で、応対《おうたい》していたが、やっと俊亮の鋒先《ほこさき》を感じたらしく、急にいずまいを直して、口ひげをひねりあげた。校長のピラミッド型の鼻と西山教頭の三角形の眼とに、それがある波動をつたえたことはいうまでもない。
 俊亮は、しかし、三人の様子には無頓着なように、
「それで、実は、私はこんなふうに考えたいのですが、まちがっていましょうか。次郎は、思慮はあるが、策がない。もし仰しゃるとおうに策があって思慮のない人間でしたら、どんな恥ずかしいことでもして、きょうの処分をまぬがれることが出来ただろう、とそう思うのですが。」
 三人の眼は俊亮の顔に釘づけにされた。
 俊亮は微笑してそれを見くらべている。
 しばらくして、曾根少佐が、まるで相手にならん、といわぬばかりの顔をして、眼を天井に向けた。同時に西山教頭が言った。
「あなたは、そんなことを言って、処分を収消させようとでもなさるおつもりですか。」
「とんでもない。」
 と、俊亮はふき出すように笑って、
「私は、次郎にあくまでも筋を通させたいとこそ思え、自分から先に立ってそんな下品な策を弄しようとは、夢にも考えていません。お言葉を承っただけでも恥ずかしい気がいたします。」
 西山教頭は顔を真赤にして曾根少佐を見た。曾根少佐は相変らず天井を向いたまま、眼をぱちぱちさせている。
「次郎は、これまで、一所懸命で筋をとおして来ましたし、これからもとおすだろうと思います。ですから――」
 と、俊亮は曾根少佐の横顔を見ながら、
「さきほどあなたは、次郎が心機一転するのをご期待下すったようですが、それは駄目でしょう。私としても、むろんそんなことがないように希望しているのです。今の信念と心境のままで突きすすんでさえもらえば、おそらく次郎は人間としてまちがいのない道を歩くことになるだろうと思います。ただ残念なのは、仰しゃるとおり気が強すぎて、つい長上に対して失礼な口のききかたをすることです。その点は本人にも十分申しきかせましょうし、諸先生方にも重々《じゅうじゅう》おわび申上げなければならないと存じています。」
 曾根少佐の眼が、その時天井をはなれて、まともに俊亮の顔にそそがれた。
「さきほどから默って承っていますと、――」
 と、少佐はすこしそり身になりながら、
「あなたは、次郎君が筋をとおすというのでご自慢のようで
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