「そうらしい。本田は陰険で表と裏がいつもちがっている、と言っているそうだ。」
「今になって、本田も、思いきってストライキをやらなかったのを後悔しているだろう。」
 こんな噂は、しかし、必ずしも、次郎に反感をもった生徒たちの間だけの噂だとばかりはいえなかった。
 彼らの大多数はもうほとんど事件に対する熱からさめてしまって、今さら処罰されるのがばかばかしいという気になっていた。で、処罰の範囲《はんい》が最小限度に食いとめられ、自分たちはその圏《けん》外に立ちたいという、無意識的な希望的観測から、自然、次郎というのっぴきならないらしい「犯罪者」と、その犯罪者を最もにくんでいるらしい曾根少佐とに、噂の焦点を集中していたのである。
 そうした種類のさまざまな噂が、あちらこちらで飛んでいる間に、どこからともなく、誰もそれまで予感もしなかった、全く新しい一つの噂がまいこんで来た。それは、次郎は女の問題で退学処分になるらしい、という噂であった。しかも、この噂は、非常な速度で全校にひろがった。そして、次郎に対する反感からの噂やら、希望的観測からの噂やらの中をころげまわっているうちに、しまいには、ちょうど雪達磨《ゆきだるま》がふとるように、十分重量のある噂になってしまったのである。
 その噂というのは、こうであった。
 学校は、朝倉先生の問題を表面に出して生徒を処罰することはやらないらしい。それを表面に出すと、処罰者は一人や二人ではすまないし、また、それには、生徒の一人一人についてもっとくわしく取調べなければならない。そんなことをしているうちに、さわぎを再発させるようなことがあっては面倒である。それに、第一、留任運動のために歎願書を出したというだけでは、何としても処罰の理由にはならない。それを思想問題に結びつけることは、朝倉先生が去ったあとでは、もう大してその必要もないし、また、それは曾根少佐が好まないところだ。しかし、そうかといって、血書を書いたり、秘密に送別会をやったりして、朝倉先生のためにあれほど仂いた次郎を、そのままにして置くわけにはいかない。曾根少佐も、次郎だけは何とかして学校から放逐したい、と考えている。そこで曾取少佐と西山教頭とが相談して、非常にずるいことを考え出した。それは女の問題を理由にして次郎を処罰することだ。校長も、ほかの教師も、二人の言いなりになるのだから、今日の会議で、多分そうきまるだろう。――
 と、いうのである。
 この噂が、それほど筋のとおったものになるのには、むろんそれ相当の理由があった。それは馬田一派の活躍であった。彼ら、とりわけ馬田自身は、次郎を事件の犠牲者にして英雄に仕立てあげるよりも、女の問題で彼に汚名をきせることに、より多くの興味をもっていたし、また、このごろ曾根少佐の家に出入することによって、信ずべき情報の提供者として有利な地位を占めていたのである。
 次郎は、この日も、あたりまえに学校に出ていた。しかし、そうした噂は、いつも彼の耳から遠いところで語られていた。また、彼自身それに近づいて行こうともしなかった。彼はへ休み時間になると、ひとりで校庭をぶらつきながら、いかにも感慨深そうに、あちらこちらを見まわしているだけだった。
 誰よりもこの噂で気をくさらしたのは、新賀と梅本だった。二人は最初のうちそれを一笑に附《ふ》していたが、生徒たちのどのかたまりででも同じようなことが語られているのを聞くと、とうとうたまりかねて、次郎を人けのない倉庫のうらに誘いこみ、半《なか》ば詰問するように、女の問題について彼自身の説明を求めた。
 次郎はさびしく微笑して、しばらく二人の顔を見つめると、かなり烈しい調子で言った。
「僕はどうせ退学さ。それはもうきまうている。昨日の曾根少佐との問題があるからね。僕自身でも、もうこの学校には未練がないんだから、甘んじて処分はうけるよ。しかし、不都合の行為あり退学を命ず、というような掲示が出た時に、それを女の問題だと思われたんじゃ、僕も残念だよ。だから、これだけは、はっきり君らに事情を話して置きたい。実は、これまで誰にも話すまいと思っていたんだが、そんな宣伝をする奴は馬田にちがいないと思うから、馬田のためにも言って置く必要があるんだ。――」
 そう言って彼は、彼がこれまで道江のために馬田に対してとった態度をかくさず説明した。彼は、しかし、説明しているうちに、心の奥に何か知ら暗い影がさすような気がして、自分ながら自分の言葉の調子がみだれるのをどうすることも出来なかった。彼はその影をはらいのけるように、最後に調子を強めて言った。
「僕には何もやましいことはない。僕は僕の信やることをやったまでだ。それがいけないというんなら、もう仕方がないさ。しかし、君らだけには信じてもらいたいね。」
 梅本も新賀も、むしろ驚いたように次郎の顔を見つめていた。すると、次郎は、また淋しく微笑して、
「とにかく僕ひとりが犠牲《ぎせい》になれば、何もかもそれで片づくんだ。そう思うと、女の問題だろうと何だろうと構《かま》わんという気もするね。ただ僕が心配しているのは、送別会のことで君ら二人に迷惑がかかりはしないかということだ。あれは僕があくまでも全責任を負うよ。実際責任は僕にあるんだからね。そのつもりで、学校が何と言おうと、君らは頑張ってくれたまえ。」
 二人はそれに対しては何とも答えなかった。梅本は、すぐ、くってかかるように言った。
「君ひとりが犠牲になったからって、何も片づきはせんよ。僕は、もし学校に残ることが出来れば、さっそく馬田の征伐をはじめたいと思っているんだ。」
 すると新賀が、
「そうだ。そしてそのつぎは西山と曾根だ。僕はそのためになら、僕の海軍志望を棒にふってもいい。」
 次郎は一瞬、躍《おど》りあがりたいほどの興奮を覚えた。しかし、つぎの瞬間には、彼はその興奮をおさえようとして、心の底でもがいていた。彼はしばらくして言った。
「そんなこと、ばかばかしいよ。こんなちっぽけな中学校のことなんか、もう、どうだっていいんだ。僕たちには、もっと大きな仕事が待っているんだから。」
 彼は、しかし、言ってしまって何かうつろな気がした。それがまだ彼の心の奥底からの声になっていなかったことは、彼自身が一番よく知っていたのである。
 その日は、それ以上に学校に大したことも起らなかった。生徒たちは、職員会議に心をひかれながらも、授業が終るとさっさと退散した。それは、彼らの大多数に、自分たちは安全地帯にいるという自信があったせいでもあったが、また一つには、学期試験が近づいているのに、朝倉先生の問題で、誰もがその準備をおろそかにしていたせいでもあった。事件最中には、ストライキをあてにして、さわぐことだけに夢中になっていた連中ほど、今では試験が気にかかっていたのである。
 それでも、その翌朝になると、生徒たちは、やはり、いくぶん興奮した眼をして、いつもより早く学校に集まって来た。そして、誰もが職員会議の結果について知りたがった。いろんな新しい想像や臆測《おくそく》が間もなく校内にみだれ飛んだことはいうまでもない。その中には、処罰は昨日の予想を裏切って非常に重く、且《か》つ範囲も校友会の委員全部に及ぶらしい。退学は少くも五六名、停学は十名以上で、その他は謹慎《きんしん》だ、といったような、恐ろしく刺戟的なものもあった。
 しかし、そうした想像や臆測も、一時間目の授業が終ったころには、もう完全に、一つの情報によって打破られ、統一されていた。それには、昨日ほど面倒な手数をかける必要もなかったのである。というのは、その情報というのが、これまで職員会議の秘密をさぐるのに一度も失敗したことのない生徒の口から発表されたものだったからである。
 いったい日本では、中等学校以上の学校で、職員会議の内容が生徒につつぬけにならない場合は極めてまれなのであるが、それは、生徒に会議の秘密でも洩らさなければ安心して教室に出られないほど、頭と心の貧しい先生たちや、学校の中で御殿女中式の勢力争いでもやっていなけれは人生は面白くない、と心得ているような先生たちが、かなり多数だからである。次郎たちの学校も、決してその例外ではなかった。だから、ひとりの物ずきな、そして先生の弱点をよく心得ている生徒がいて、職員会議のすんだ日の夕食後にでも、散歩がてら先生の門をたたくと、彼は、煎餅でもおごってもらいながら、大した苦労もなしに、先生自身の口から、会議の内容を細大もらさすきき出すことが出来たわけなのである。
 むろんそうした生徒は、先生に、「これは君までの話だ、他の生徒には絶対にもらさないように。」と懇々《こんこん》口|留《ど》めされるのが常である。しかし、その生徒がそうした口留めを守るほど道徳的でないこともむろんである。それは、先生が職員会議の秘密について道徳的でないのと同様なのである。彼は、誰先生に直接きいて来たんだという確証を与えることによってのみ、生徒たちに喝采《かっさい》され、彼自身の功績を誇りうるということをよく知っているのである。
 さて、そうした種類の一生徒によって、全校にばらまかれた権威ある情報というのは、こうであった。
 次郎は諭旨《ゆし》退学にきまった。そのほかには処罰者はない。次郎の諭旨退学も、形の上では保証人からの願出による退学になるわけだから、正式には処罰者は一名もないことになるのである。
 次郎の諭旨退学の理由は、教師に対する反抗心が強く、すでに二年生のころから宝鏡先生に対して不遜の言動があり、最近では、配属将校に対してさえ甚しく無礼な態度をとり、しかも反国家的な言辞《げんじ》を弄《ろう》してはばからないので、他の生徒に対する悪影響が甚しいし、学校としては到底教育の責任を負うことが出来ないというのである。
 女の問題は、生徒間にはすでに知れ渡っており、その証拠を握っている生徒もあるが、周囲に及ぼす迷惑を考慮し、この際それは問題にしないことになった。
 なお、次郎に対する同情的意見を述べた先生が二人ほどあった。その一人は、次郎の学級主任の先生、もう一人は、この会議の内容をもらした某先生自身であった。しかし、次郎の保証人を納得《なっとく》させるためには全職員一致の意見でなければ工合がわるい、という校長からの希望もあり、大勢がすでにきまっていたので、二人共強いては主張しなかった。
 だいたい情報の内容は以上のようなものであったが、この情報は、三時間目の授業中、次郎が、即刻召喚《そっこくしょうかん》の紙片を受取って、教室を出て行ったことによって、もはや一点の余地を残さないものになってしまった。――即刻召喚の紙片というのは、「即刻」という大きな朱印の下に、呼び出す先生の名と呼び出される生徒の名とを記した小さな紙片でしかなかったが、それが授業の最中に給仕によって教室に持ちこまれるということは、呼び出される生徒にとって、いつも極めて重大な意義をもっていたのである。
 次郎は、教室を出るまえに、机の中の自分の持物をのこらず雑嚢にしまいこんだ。それがまたみんなの注目をひいた。彼はその雑嚢を肩にかけると、ほとんど無表情に近い顔をして生徒たちを見まわし、それから先生におじぎをして教室を出て行ったが、その様子には、先生も生徒たちも何か異様な圧迫を感じたらしく、彼の足音がきこえなくなるまで教室は水の底のように静まりかえっていた。
 次郎を呼び出したのは、学級主任の黒田先生だった。次郎は、この先生とはふだん特別の深い交渉はなかったが、現在の先生の中では一番いい先生だと思っていた。で、即刻召喚の紙片を手にした瞬間、この先生が自分の学級主任であってくれてよかった、という気がしたのだった。
 次郎の顔を見ると、黒田先生はすぐ自分の席を立って、彼を監督室の隣の室につれて行った。宝鏡先生の事件以来、この室にはいるのは四年ぶりである。テーブルには相変らず虫のくった青毛氈《あおもうせん》がかけてあり、「思無邪」と書いた正面の額も、昔どおりであった。
 二人が腰をおろ
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