きかたが問題だよ。それについて考えてみたかね。」
次郎は面くらった。まさか父はストライキをやれというのではあるまい。だとすると、学校の言いなりになって、おとなしく引きさがるよりほかに仕方がないではないか。――
次郎が考えこんでいると、俊亮は、だしぬけに、まるで次郎の問題とは無関係なようなことを言い出した。
「おまえがまだ七つ八つの子供のころに、近在のならず者がよくうちにやって来て、酒をのんだりしていたことがあるが、それを覚えているかね。」
次郎は、「指無しの権《ごん》」とか「饅頭虎《まんじうとら》」とか綽名されていたならず者共が、酒をのんでけんかを始めたのを、父が仲にはいって取りしずめた時の光景を、今だにはっきり覚えている。で、そのことを言うと、俊亮は、苦笑しながら、
「そうそう、そんなこともあったね。ところで、ああいう無茶な連中でも、やはり人間は人間だったんだ。こちらの出方ひとつでは、良心というか何というか、とにかく人間らしい正直さを見せたもんだよ。世の中に、腹の底からの悪人というものは先ずないと思っていいね。」
次郎は、最初、父が自分をならず者あつかいにしようとしているのではないかと思って、ちょっと意外な気がした。しかし、そうではないらしかった。彼は安心しながらも、ますますわけがわからなかった。
「腹の底からの悪人もないが、しかし、また一から十まで完全な善人もない。たいていの人間はやはりならず者だよ。朝倉先生のような人はべつとして、学校の先生でも、先ず百人が百人、ある程度のならず者だと言ったって差支えないと思うね。軍人なんか、このごろは相当のならず者になってしまっているよ。考えようでは指なしの権や、饅頭虎なんかより、よほど始末のわるいならず者だろう。すばらしく大がかりな無茶をやるからね。」
俊亮の言葉の調子には、少しも誇張したわざとらしさがなかった。あたりまえのことをあたりまえに言っている、といった調子だった。しかし、そうであればあるほど、きく人の方には、それが却《かえ》って奇抜に感じられるのだった。みんなの顔はいつの間にか微笑していた。俊三などは、今にも拍手でもしそうな様子だった。俊亮はみんなのそんな様子をちょっと見まわしたあと、次郎に眼をすえ、
「そこで、いよいよ次郎の問題だが、どうだい、これだけ言えばもうわかるだろう。」
次郎には、しかし、まだ返事が出来なかった。彼は、急に沈痛な顔をして考えこんだ。大沢も、恭一も、道江も、しきりに首をかしげた。俊三は、大して興味はなさそうだったが、それでもやはりちょっと首をかしげた。
俊亮は、にこにこしながら、
「しかし、そういそぐことはない。あすあたりは多分学校の肚もきまるだろうから、こちらの肚もそれまでにきめて置けばいいんだ。じゃあ、それまで宿題にしておくかな。」
そう言って立ち上った。そして階段をおりようとしたが、また立ちどまつて次郎をふりかえり、
「朝倉先生には、私からすぐ手紙をかいてお願いして置くよ。この方はなるだけ早い方がいいからね。」
間もなく夕食だった。大沢は当分厄介になるつもりで来ていたし、道江もしばらくぶりだというので、いっしょに夕食によばれた。お祖母さん、お芳、それにお金ちゃんを加えて九人が、男と女とにわかれて二つの食卓を囲《かこ》んだ。次郎の問題には少しもふれず、俊亮と大沢を中心に、腹をかかえるようないろんな問答がとりかわされ、このごろにない賑《にぎ》やかな夕食だった。
夕食がすむと、次郎たちはすぐ散歩に出た。道江もいっしょだった。せんだん橋を渡り、川の土手にそって一丁ばかり上ると、その左手に、旧藩主の茶亭のあとがあり、そこの庭園は誰でも自由にはいれることになっていた。五人はその庭園にはいり、池の近くの芝生に腰をおろした。
話題は自然次郎の問題に集中された。しかし、もう誰も次郎の処分の有無を気にかけているものはなかった。道江でさえ、「小父さまがあんなお気持でいて下さるから大丈夫ね」と言い、また、「東京に行って朝倉先生のお世話になれたら、次郎さんは却っておしあわせだわ」とも言った。問題の中心は、次郎が俊亮に与えられた課題だったが、これは雲をつかむようで、みんなが始末にこまった。恭一は、
「立つ鳥はあとをにごさず、といったようなことかね。」
と、言い、大沢は、
「いや、学校側に一本釘をさしておけ、というんだろう。」
と言ったが、結局、そんな程度のぼんやりした解決以上には進展しそうになかった。
次郎本人は、その問題ではほとんど口をきかなかった。彼はむっつりして、いつも池の水ばかりを見つめていた。そして、みんなの話が行きつもどりつしている間に、ふいと立ちあがって、ひとりで池の向側の築山をのぼり、その裏側の竹林の中にはいって行った。
彼は問題をひとりで考えてみたかったし、そうでなくても、恭一と道江をまえに置いては、彼の考えは、とかくみだれがちになりそうだったのである。
竹林の中に腰をおろした彼は、うずくまるように首をたれて考えこんだ。もう日は暮れかかっており、やぶ蚊がしきりに襲って来た。彼は、しかし、それを平手でうつだけで、立ち上ろうとはしなかった。指なしの権、饅頭虎、曾根少佐、西山教頭、馬田、そうした人たちの顔がつぎつぎに彼の考えの中を往復した。そのうち、ふと、ひとりの毒々しい女の顔が浮かんで来た。それは春月亭の内儀の顔だった。と、その瞬間、ふしぎにも、彼の心にさっと明るい光が流れこんだ。それは、春月亭の問題のあとで、朝倉先生をたずね、ミケランゼロの話を聞かされたことを思い出したからだった。
「この石の中には女神がとりこにされている。私はこれを救い出さなければならない。」
そう言って、こけむした、きたない石の中から美しい女神の像を刻み出したミケランゼロの心を、父は自分に求めているのだ。父と朝倉先生とは、どうしてこうも人生に対するものの考え方の根柢《こんてい》が一致しているのだろう。そして自分は、何といういい父をもち、何というすぐれた先生を恵まれたことだろう。
彼は勢いよく立ちあがった。そして、竹林の密生した葉の間からもれる星の光を仰いだ。
「おうい、次郎君――。」
大沢の愉快などら声が、そのとき池の向こうからきこえた。
「おうい。」
と、次郎の答えも元気でほがらかだった。
「もうかえるぞうっ――」
「ようし、すぐ行く――」
五人は間もなく家に帰ったが、次郎は、恭一と道江が暗くなった道を、おりおり並んで歩くのでさえ、今はさほど苦にならなかった。
俊亮は、ちょうど朝倉先生あての手紙を書き終えて、お祖母さんが一人で涼んでいる座敷の縁《えん》に出たばかりのところだった。手紙は宛名を墨書して座敷の机の上にのせてあったが、それは俊亮の手紙にしてはめずらしく分厚なものだった。
みんなはすぐ俊亮をとりかこんだ。しかし、誰も、さっきからの課題のことを言い出すものがなかった。それは、次郎の問題をお祖母さんにきかれてはまだ悪いだろう、と察したからであった。すると、次郎がだしぬけに、
「僕、朝倉先生にこんな話をきいたことがあるんです。」
と前置して、ミケランゼロの話をし出した。そして、話し終ると、それについてべつに説明や感想をのべるのでもなく、ただ真剣な顔をして、じっと父の顔を見つめていたが、しばらくして思い出したように言った。
「これが父さんの宿題に対する僕の解答です。」
大沢はじめ、恭一も、俊三も、道江も、ぽかんとして次郎の顔を見た。俊亮は、縁の柱によりかかり、かなり永いこと眼をつぶっていたが、やがて眼をひらくと言った。
「満点以上だ。心の持方としてはそれ以上の答案はあるまいね。父さんも、大たい似たようなことを考えてはいたが、どこかにまだ滓《かす》みたようなものがこびりついていたようだ。私の立場からの対立観で、相手を向こうにまわすという気が少しでも残っていると、どうも満点はとれないものだね。」
それからまたしばらく眼をとじたあと、
「しかし、大事なのは実際の場合だよ。実際の場合に心が乱れては、女神どころか、がらくた道具も出来はしないからね。その点では、或いは父さんの方が次郎よりうわ手だかも知れんぞ。はっはっはっ。……まあ、しかし、これはその場になってみんとわからん。どうせ父さんも学校には顔を出すことになるだろうが、その時がほんとうの試験だ。」
次郎は、もうその時には、眼をふせて、じっと縁板の一点を見つめていた。
「俊亮も、何か学校で試験があるのかい。」
お祖母さんが、けげんそうな顔をして、ひょっくりたずねた。
みんなが一度にふき出した。次郎は、しかし、ちょっと苦笑しただけで、またすぐ眼をふせた。
一五 明暗交錯
翌日、学校では、もう朝から、朝倉先生が駅で憲兵に取調べられたことや、次郎が駅からの帰りに曾根少佐に呼びつけられたことなどが、生徒間の噂の種になっていた。そしてその原因が、白鳥会員だけで催《もよお》された朝倉先生の「秘密な」送別会にあったということは、一部の生徒の次郎に対する淡い反感の種になっているらしかった。
「白鳥会で朝倉先生を独占しようなんて考えるのが、第一まちがっているよ。」
「本田は、はじめっからそんな考えでやっていたにちがいないんだ。血書を書いたことだって、新賀のほかには誰も知ったものはいなかったんだろう。」
「要するに今のさわぎは白鳥会のために起ったようなものさ。」
「白鳥会のためならまだいいが、本田個人のためだったんじゃないかな。」
「そんなことを考えると、何だかばかばかしくなって来るね。」
「しかし、もうすんだことだ。それに、あと始末は本田がひとりでつけるだろう。」
「はっはっはっ。」
そんな会話も取り交わされていた。
午ごろになって、職員室の掲示用の黒板に、つぎの文句が記されていた。
「本日放課後、第一会議室において緊急職員会議開催につき、事務職員以外は洩《も》れなく参集せられたし。」
それを最初に見つけた一生徒は、鬼の首でもとったように、すぐそのことを生徒仲間につたえた。すると生徒たちはまた新しい話題で興奮しはじめた。朝倉先生を見送って、ともかくも事件が一段落ついたあとの最初の職員会議であり、それに、第一会議室が、いつも秘密を必要とする会議に使われるのを生徒たちはよく知っていたので、それが何を意味するかは、彼らにもすぐ想像がついたのである。
「いよいよ処罰会議だぜ。今度は相当きびしいかも知れんよ。」
「何しろ、曾根少佐が頑張っているからね。」
「しかし、曾根少佐は問題をあまり大きくしたくない考えだっていうじゃないか。」
「まさか。あいつにそんなやさしい考えなんかあるもんか。」
「やさしい考えからじゃないよ。それがあいつの手なんだよ。」
「手だっていうと?」
「自分が配属将校でいる間は、思想問題は大丈夫だっていうところを見せたいんだってさ。」
「ふうん。そんなことを考えているんか。じゃ処罰は案外軽いかな。」
「僕は軽いと思う。退学なんかあまりないんじゃないかな。第一、あんまりひどいことをやると、僕たちもだまっておれんからね。そうなると、また学校が困るだろう。」
「曾根少佐も、それを心配しているんだよ、きっと。」
「自分の名誉のためにか。」
「ふっふっふっ。」
「しかし、一同訓戒程度ですんだら、蟇の効用もたいしたもんだね。」
「そんなわけには行かんよ。白鳥会の秘密送別会のことは、憲兵隊が問題にしているというし、曾根少佐だって、もうどうにも出来んだろう。」
「少くとも、本田だけは危いね。血書のこともあるし。」
「あいつ、少し図《づ》にのりすぎていたんだ。仕方がないよ。」
「そのくせ、ストライキだけにはいやに反対していたんだが、あれはやっぱり朝倉先生に対する忠勤《ちゅうきん》のつもりだったかね。」
「さあ、どうだか。それも一種の手だったかも知れんぜ。」
「そうだと本田もあてはずれだね。曾根少佐は今でも本田をストライキの煽動者《せんどうしゃ》だと見ているっていうじゃないか。」
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