「けんかって、まさか、なぐりあいをやったわけではないだろう。」
「むろん、そんなばかなことはしませんよ。」
「じゃあ馬鹿野郎とか何とか君の方で言ったんか。」
「そんな……そんな無茶なこと、僕だって言やしません。」
「じゃあ、どんなけんかだい。」
「議論をしただけです。」
「議論するのはけんかじゃないよ。しかし、どんな議論をしたんだい。」
「曾根少佐は卑劣ですよ。僕をたべ物で釣ろうとしたんです。だから、僕、よけいしゃくにさわって、思いきって言いたいことを言ってやったんです。」
そう言って彼は、かなり興奮した調子で、ゆうべの会合のことをきかれたことから、最後に朝倉先生のことで思いきった激論をやったことを、出来るだけくわしく話した。しかし、話してしまうと、急に力がぬけたように、仰向けにごろりとねころんだ。そして、屋根うらの一点にじっと眼をすえながら、ひとりごとのように言った。
「僕、もう、学校なんかどうだっていいや。」
恭一は深いため息をつき、道江はそっと涙をふいた。俊三は、次郎が興奮して話しているうちは、いかにも痛快だといった顔をしてきいていたが、最後には、やはり心配そうにみんなの顔を見まわした。大沢は、最初から最後まで、膝のうえに頬杖をつき、眼をつぶって、「うん、うん」と合槌をうっていた。しかし、次郎がねころんで、すてばちなようなことを言うと、何と思ったか、急にのっそり立ちあがり、默って階下におりて行ってしまった。
大沢の足音がきこえなくなるまで、沈默がつづいた。誰も、大沢が何で階下におりて行ったのかをあやしんでいる様子はなかった。
「学校よして、どうするの?」
俊三がしばらくしてたずねた。
「これから考えるさ。」
次郎はねころんだまま気のない返事をした。だが、急に何か思いついたように、むっくり起きあがり、恭一に向かってたずねた。
「父さんは、きょう、朝倉先生を見おくったあとで、僕のこと何とも言っていなかった?」
「何にも言わないよ。」
「朝倉先生は、僕に万一のことがあったら、すぐしらせるようにって、駅で父さんに仰しゃったっていうじゃないか。」
「そうだよ。だから、僕、帰ってから大沢君と二人で、父さんがそれをどう考えているかたずねてみたんだ。しかし、父さんは、次郎のことは次郎にまかしておくさ、と言ったきり、まるでとりあってくれないんだよ。」
次郎は、父の自分に対するそうした信頼の言葉をきくのが、今はむしろ苦痛だった。
彼は考えた。自分はゆうべの会合のことで処罰《しょばつ》される理由は少しもない。もしそれを理由にして学校が自分に退学を強いるとすると、それは権力の不正な行使以外の何ものでもないだろう。しかし、きょう自分が曾根少佐に対して言った言葉の中には、世間の常識から考えて、たしかに不遜《ふそん》なものがあったようだ。それは、考えようでは、もうそれだけで退学処分の十分な理由になるのかも知れない。――もしそうだとすると、自分は、父の自分に対する信頼を裏切ったことになりはしないか。――
しかし、また、一方では、彼はこんな気もした。父は自分が曾根少佐のような卑劣な人間に屈従することを決して喜びはしない。かりに自分が、少佐にこびることによって、ゆうべのことを帳消《ちょうけ》しにされ、幸いに学校を卒業することが出来たとしても、父はそんな卒業を軽蔑こそすれ、決して心から祝ってはくれないだろう。
そんなことを考えているうちに、ふと彼の頭にうかんで来たのは馬田のことだった。馬田の不良は生徒間には周知の事実だ。それは先生たちの眼にも映っていないわけはない。その不良が、このごろは曾根少佐の家に出入して、スパイの役目をつとめようとしている。しかもそれは、でたらめな、ただ自分を安全にし、自分のきらいな生徒をきずつけるためだけのスパイなのだ!
馬田への連想は、彼の視裸を自然に道江の顔にひきつけた。そこには、たった今、彼のために泣いてくれた、うるんだ眼があった。二三日まえまでの彼だったら彼はその眼を可憐《かれん》にも思い、その眼に心から感謝したくもなったであろう。また、その眼をとおして、何か知らほこらしい気持を味わい得たのかも知れない。だが、今はその眼が、恭一の眼とならんでおり、そして恭一の心と調子を合わせているということだけで、彼の気持をもつらせ、戸まどいさせる原因になっていたのである。
自分は朝倉先生を失った。――この意識は、むろん、もう彼にははっきりしている。
自分は学窓生活を奪われようとしている。――この意識も、もう彼にとって決してぼんやりしたものではない。
しかし、彼にとってのもう一つの不幸、――自分は自分の恋人を失おうとしている、という意識は、まだ彼の心の中で、そうはっきりしたものにはなっていなかったのである。それどころか、彼はまだ一度もはっきりと道江を自分の恋人として考えたことさえなかった。彼がこれまで馬田と烈しく戦って来たのも、彼自身の意識の表面にあらわれたところでは、あくまでも朝倉先生の一使徒として生きるためであり、道江を馬田の侮辱から護るために心をくだいたのも、彼の正義感に出発したもので、決して自分の恋の競争者に対する挑戦を意味するものではなかったのである。
だが、今は事情がすっかりちがって来た。恭一はどんな意味ででも馬田ではない。彼は朝倉先生のもっともすぐれた使徒の一人であり、同時に自分の肉親の兄でさえある。しかも、自分の知るかぎりでは、彼はすでに道江の将来の夫に予定されている。それは、或は、まだ恭一自身の意志にはなっていないのかも知れない。しかし、「時」はいつ二人をはなれがたいものに結びつけてしまうかもわからないのだ。いや、すでに結びつけつつある。少くとも、道江の方では、彼女の手を伸ばせるだけ伸ばそうとしているのだ。現に彼女は、さっきから、恭一と心の調子をあわせることに一所懸命になっているのではないか。恭一とはふだん遠くはなれていて、ろくに言葉を交わしたこともない彼女が、きょう駅での出来事を恭一にきいたというのが第一おかしい。
そんな考えが混沌《こんとん》とした一種の感情となって彼の心をかきみだした。そして、そのために、彼はいやでも道江に彼の「恋人」を見出し、恭一に彼の恋の競争相手を見出さないでは居れなくなって来たのである。
恋の競争相手が遊蕩児《ゆうとうじ》であり悪漢であることは、恋する人にとって決して不幸なことではない。それは、その人が自分の恋をはっきり意識してため息をつく必要もなく、しかも正義の名において、どのようにも勇敢に恋人のために戦うことが出来るからだ。何といっても、最も不幸な恋は、恋の競争相手が自分の敬愛する人であり、しかも恋の勝利者としての諸条件を自分よりもより多くめぐまれた人の場合であろう。そうした場合、恋する人は、否応《いやおう》なしに自分の苦しい恋をはっきりと意識させられるであろうし、同時に、恋人のためにいさぎよく戦いの矛を収《おさ》めなければならないであろう。しかも、そうすることによって、その恋はいよいよせつないものになって行くのだ。
次郎は、道江の顔に自分の視線をひきつけられた瞬間から、次第にそうしたせつない恋の世界に自分の心がさそいこまれて行くのを感じた。運命は、彼の魂《たましい》のよりどころであった朝倉先生を彼から奪いとったその日に、そして、永い間彼が情熱を傾けて来た学窓生活から彼を逐《お》い出そうとおびやかしはじめたその日に、彼にはっきりと恋を意識させ、しかもその恋の空しいことを意識させたのである。
次郎の視線は力なく道江の顔をはなれた。彼はその視線を一たんは恭一の方に向けかえようとしたが、それは、彼自身でも意識しない心の底のある波動にさまたげられて、畳の上に落ちてしまった。
「次郎さん、やけになったりしちゃあつまりませんわ。お父さんに早くご相談なすったらどう?……ねえ、恭一さん。」
道江が、まだぬれている眼を恭一の方に向けながら言った。
恭一は、しかし、道江には答えないで、しばらく考えたあと、次郎に言った。
「どうだい、父さんにお願いして、今日のうちに曾根少佐のうちに行ってもらっては。」
「曾根少佐のうちに? 父さんが? 何しに行くんだい。」
「あやまりにさ。」
「ばかいってらあ。」
次郎はどなりつけるように言って、鋭い眼を恭一にむけた。が、すぐその眼をおとして、
「あやまる必要があれば、僕が自分であやまるんだ。」
彼は、父がまだ酒屋をしていたころ、自分の無思慮な行為のために、父といっしょに春月亭の内儀にあやまりに行った時のことを思いおこしていた。しかし、曾根少佐に対してとった自分の態度が、あの時のような無思慮なものであったとは、どうしても思えなかったのである。
「じゃあ、自分であやまりに行ったら、どうだい。」
「あやまる必要があるんかい。」
「あるよ。」
「何をあやまるんだい。僕の言ったことは間違っていましたって、あやまるんかい。」
次郎の調子はいかにも皮肉だった。口もとにはかすかな冷笑さえ浮かんでいた。
「問答の内容じゃないよ。いけなかったのは君の態度だよ。」
「僕は乱暴な態度に出た覚《おぼ》えはないんだ。帰りには、きちんと敬礼もして出て来たんだ。」
次郎は、そんなことを言う自分が内心恥ずかしかった。しかし、なぜかあとへは引かれない気持だった。
「敬礼ばかりしたって、口で失礼なことを言やあ、駄目さ。権力で圧迫するなんて、真正面から生徒に言われたら、どんな先生だって怒るよ。」
「しかし、それが本当だから仕方がないじゃないか。ほんとうのことを言われて、それを失礼だと思うなら、思う方が間違っているだろう。」
次郎は、言えば言うほど自分が片意地になって行くような気がして、不愉快だった。で、恭一がまた何か言おうとしているのをはねとばすように、ふいと立ち上った。そして、
「とにかくあやまる必要はないよ。僕が僕のやったことに自分で責任を負えばいいだろう。」
そう言って階段の方に行きかけた。
「次郎さん! ほんとうにどうなすったのよ。」
道江の泣くような声が彼を追った。つづいて俊三が、茶化すような調子で、
「問答無用は卑怯だなあ。もっとやれよ、僕が審判してやるから。」
次郎は、しかし、ふりむきもしないで階段をおりかけた。
が、それはちょうど、俊亮が階下から階段に足をかけた時だった。俊亮のうしろには、大沢が立っていた。
「どこに行くんだい。」
俊亮が下からたずねた。
「畑に行くんです。」
次郎は、おりかけた足を階上に逆もどりさせながら答えた。
「そうか。」
と、俊亮は立ちどまって、次郎の顔をまじまじと見上げていたが、
「ちょっとお前に話があるんだ。やはり二階の方がいいだろう。」
そう言って、そのまるっこい体をのそのそと階上に運んだ。それから、
「やあ、道江さんも来ていたんだね。」
と、にこにこ笑いながら、みんなと円陣をつくった。
が、それっきり、持っていた団扇《うちわ》でゆるゆると頸《くび》のあたりをあおぐだけで、いつまでも口をきこうとしない。
「僕、次郎君のさっきの話、いま階下で小父さんにも話したんだ。」
大沢がとうとう先に口をきった。それでも俊亮はしばらく口をきかなかったが、急に団扇の手をやすめて次郎に言った。
「で、次郎、お前どう考えているんだい。」
「どうせ。学校にはもう行けないと思っているんです。」
次郎は眼をふせて答えた。
「そりゃあ、もうわかっている。父さんは、お前が配属将校に呼ばれたときいた時に、きっとそんなことになるだろうと覚悟をきめていたんだ。朝倉先生が別れぎわに言われた言葉だけでは、まだいくぶん未練《みれん》を残していたがね。」
みんなは顔を見合わせた。俊亮の言葉は、彼らにとって、全く意外だったのである。次郎自身は、なぐりとばされたようでもあり、ひょうしぬけがしたようでもあり、急に気が軽くなったような気持でもあった。
「だが――」
と、俊亮はちょっと考えて、
「どんな態度で学校を退《ひ》くか、その退
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