なりそうだって仰しゃるんですか。」
「そうだよ、もうすでに迷信家になっているんだよ。」
「どうしてです。」
「朝倉先生の言われたことだと、君は無条件に信じているんだろう。」
 今度は多少の手ごたえがあったらしかった。次郎はじっと考えた。しかし、間もなく彼はきっぱりと答えた。
「信ずる価値のあるものを信ずるのは、迷信ではありません。」
 少佐は二の矢がつげなかった。しかしぐずぐずしているわけにはいかない。
「価値のあるなしは、どうして決めるんだ。」
「自分で決めます。」
「すると朝倉先生が言われたから何もかも信ずる、というわけではないんだね。」
「むろんです。自分で正しいと思うから信ずるんです。しかし、朝倉先生の言われたことで、これまで一度だって、まちがっていたと思った事はありません。」
「それが迷信だよ。現にまちがっていたればこそ、この学校を去られることにもなったんではないかね。」
「ちがいます。先生は権力《けんりょく》の迫害にあわれたんです。」
「何? 権力の迫害?」
「そうです。迫害です。そしてその権力こそ迷信のかたまりです。」
「本田! 言葉をつつしめ!」
「僕はあたりまえのことを言っているんです。先生こそつつしんで下さい。」
「默れ! 失敬な。」
「僕は道理に服従します。おどかされても默りません。」
 二人はいつの間にか立ちあがっていた。
「君は、いったい、秩序ということをわきまえているのか。」
「わきまえています。」
「わきまえていて、よくもそんな無礼なことが言えたな。」
「道理に従うのが秩序です。無法な権力に屈しては秩序は守れません。」
「何だと? すると君は、わしが無法な権力をふるっているとでも思っているのか。」
「思っています。朝倉先生は正しかったんです。権力の迫害にあわれたんです。それは間違いのないことです。それを間違いだといっておさえつけるのは無法です。無法な権力です。」
 次郎は真青な顔をして、頬をふるわせていた。少佐の顔も青かった。彼は歯を食いしばって次郎をにらんでいたが、ふうっと一つ大きな息を吐き出すと、言った。
「それほど強情を張るんでは、もう仕方がない。せっかく君のために計ってやるつもりだったが、わしもこれで手をひく。もう用はないから帰れ。」
 次郎はきちんとお辞儀をして部屋を出た。少佐は部屋につったったまま、そのうしろ姿を見おくった。玄関で、次郎が靴をはき終ってうしろをふりかえると、洋間と反対側の日本間の入口から、女の顔がのぞいていた。それはあざけるような眼をした少佐夫人の真白な顔だった。
 そとに出ると、彼の気持は案外おちついていた。言うべきことを憚《はばか》らず言った、というほこらしい気持にさえ彼はなっていた。急にのどの渇きを覚え、むしょうに水がのみたかった。彼は駅前に公共用の水道の蛇口があるのを思い出し、大急ぎでそこまで行きつくと、存分にのどをうるおした。そして、ほっとした気持になって帰途についたが、間もなくまた思い出されたのは、朝倉先生の険しい眼だった。それは不思議なほどあざやかに彼の眼に浮かんで来た。
 とびあがり者!
 そう考えた時に、彼は、駅の待合室で同じことを考えた時以上に、ぎくりとした。それは、ついさっき曾根少佐に対してとった自分の態度が、やはり飛びあがりものの態度ではなかったか、と思ったからである。
 彼は車中の朝倉先生を想像した。夫人と向きあって、相変らず険しい眼をしてじっと何か考えていられる。先生の眼には、もう永久に、あの澄んだ涼しい光はもどって来ない。そんなふうにさえ彼には思えるのだった。
 彼は歩く元気さえなくなり、土手にたどりつくと松かげの熊笹の上にごろりと身を横たえた。そしてじっと青空に眼をこらしたが、その青空からも、朝倉先生の険しい眼が彼を見つめていたのだった。

    一四 残された問題

 次郎は、それから小一時間もたって家に帰って来たが、二階では、大沢、恭一、俊三、それに道江の四人が、額をあつめるようにして、何か話しあっていた。
 次郎があがって行くと、四人は急に話をやめ、一せいに彼の顔を見た。彼は直感的に、四人がそれまで自分のことを話していたにちがいない、という気がした。そして、つっ立ったまま、ほんの一二秒彼らの顔を見くらべたが、道江の眼に出っくわすと、てれくさそうに視線をそらし、默って俊三と大沢の間にわりこんだ。大沢の左に恭一が居り、恭一と俊三との間に道江がいたのである。
 誰もしばらくは口をきくものがなかった。四人は次郎の顔をのぞくようにして、彼が何か言い出すのを待っているかのようだった。次郎はいよいよ変な気がした。
「どうだった?」
 大沢がとうとう口をきった。
「え?」
 と、次郎はけげんそうな顔をしている。
「配属将校に呼ばれたんだろう。」
「ええ、呼ばれました。……知っていたんですか。」
「僕たち、朝倉先生を見送ってから、日進堂で立ち読みをしていたんだよ。」
 日進堂というのは、駅前通りから曾根少佐の家の方にまがる角の本屋なのである。
「ふうん。」
 次郎は、学校に引きかえさないで自分から曾根少佐の自宅を選んだことが、今さらのように腹立たしかった。
「どんな話だった?」
「ゆうべのことです。」
「やっぱりそうだったんか。」
 四人は顔見合わせて、まただまりこんだ。次郎はすこし興奮しながら、
「僕、何もかもすっかり言っちゃったんです。いいでしょう。」
「言ったっていいさ。何も悪いことしたわけじゃないんだから。しかし、朝倉先生には気の毒だったよ。」
「先生がどうかされたんですか。」
「先生も、ゆうべのことで、憲兵の取調べをお受けになったんだよ。」
「いつ?」
「きょう、駅でさ。」
「駅で?」
 次郎は顔が青ざめるほどおどろいた。
 大沢が恭一に補足してもらいながら説明したところによると、こうだった。
 二人は俊亮といっしょに少し早目に駅に行って、見送りの名刺受付の用意をしていた。するとオートバイで乗りつけて来た三十歳あまりの背広の男が、少しせきこんだ調子で、「朝倉さんはまだですか」とたずねた。まだだと答えると、「見えたらすぐお会いしたいのです。」と言って、すぐ駅長室の方に行ったが、間もなくまたやって来て、待合室をぶらぶらしながら、時計ばかり見ていた。俊亮が、「お見送りでしたらお名刺をいただかして下さい。」と言うと、「いや、いいです、お会いすればわかるんですから。」と言う。とその時には、発車までにまだ五十分近くも間があった。
 それから十分あまりたって、朝倉夫人がやって来た。そして三人と話していたが、その男は夫人をじろじろ見るばかりで、何とも言わない。そのころまでは、見送り人もまだ見えなかったので、三人は夫人を相手にゆうべの話をし出して、笑ったり、しんみりなったりしていた。すると、その男がいつの間にか近づいて来て、四人のすぐうしろに立っている。顔をあらぬ方に向けて、耳の神経だけを四人の話声に集中しているといった恰好である。四人は、誰からともなく、口をとじてしまった。
 ちらほら見送りの人が見え出したころ、朝倉先生が人力車で乗りつけた。そして見送りの人たちと挨拶を交わしていると、いきなり、その男が、横から割りこむようにして、先生に一枚の名刺をつき出し、何か小声でささやいた。先生はちょっと困ったような顔をして俊亮の方を見たが、そのまま、その男といっしょに駅長室の方に行った。
 そのあと、見送りの人たちがあとからあとからとつめかけた。朝倉夫人は、その一人一人に、「先生は」ときかれて、返事にまごついているようであった。また一方では、先着の見送りの人からつぎつぎにある秘密なささやきがつたわって、変に緊張した空気があたりを支配した。その空気は、俊亮や、恭一や、大沢たちには、発車時刻が近づいて一般乗客の混雑が大きくなるにつれ、かえってはっきり感じられたのだった。
 改札がはじまった頃、朝倉先生はやっと駅長室から帰って来た。気のせいか、顔が少し青ざめており、いつもの澄んだ眼の底に、気味わるいほどの冷めたい光がただよっているように見えた。しかし、先生は落ちついた調子で、見送りの人たちにあいさつした。
「皆さん、今日はわざわざありがとうございました。つい、よんどころのないことで駅長室に行っていたものですから、ごあいさつがおくれまして。……」
 見送りの人たちの中には、先生に近づいて来て、固い握手を交わしたものも二三人はあった。しかし、その多くは、ちょうどその時、けたたましい音を立てて、駅前の広場を走り出したオートバイに気をとられていた。
 間もなくみんなは歩廊に出たが、朝倉先生は俊亮とならんで歩きながら、沈んだ調子で言った。
「さっきのは憲兵でしたがね、やはり、ゆうべのことが問題になっているようでした。しかし、かくすのは却っていけないと思いましたので、ありのままを言って置いたんです。あるいはご迷惑になるようなことになるかも知れません。白鳥会も、おそらくこれまでのように気持よくはやれなくなるでしょう。しかし、白鳥会はまあ仕方がないとして、何より心配なのは次郎君のことですが、……」
 俊亮はただうなずいてきいているだけだった。
 それから、先生はいよいよ列車にのりこむ直前になって、また俊亮に言った。
「まさかとは思いますが、万一にも次郎君が不幸を見るようなことがありましたら、すぐお知らせ下さい。とにかく中学は出ておく方がいいし、東京でなら何とか方法がありましょうから。」
 それにも俊亮はただうなずいたきりだった。
 大沢は、以上のことをぶちまけて次郎に話したあと、いかにも感慨《かんがい》深そうに言った。
「きょうは、さすがの先生も、よほど不愉快だったと見えて、最後まで気味のわるい眼付をしていられたよ。僕は、あんな眼付が先生にも出来るのかと思って、不思議な気がしたくらいだ。」
 次郎は、最後に見た朝倉先生の険しい眼を、もう一度はっきりと思いうかべた。そして、それが自分を非難する眼であるよりも、むしろ自分のことを心から心配してくれている眼だったということを知って、おどろきもし、うれしくも思う一方、強い愛情のしめ木にかけられる苦しさを覚えた。
 次郎の複雑な表情を注意ぶかく見つめていた恭一が言った。
「曾根少佐のうちではどうだったい?」
 次郎は、しばらく顔をふせて、考えこんでいるふうだったが、少し言いにくそうに、
「僕、とうとうけんかしちゃったんだ。」
「けんか?」
「まあ!」
 恭一と道江とが同時に叫んだ。次郎には、しかし、二人のおどろきが、なぜかうつろなものにきこえた。彼は、なぜということもなく、俊三の方に視線を転じたが、俊三は、むしろ好奇的な眼をして彼のつぎの言葉を待っているかのようだった。
「配属将校を相手にけんかなんかしたんじゃ、いよいようるさいね。」
 恭一が言うと、道江がすぐそのあとから、泣くような声で、
「次郎さん、だめね。あたし、きょう、朝倉先生がおたちになったってききましたから、次郎さんはどうしていらっしゃるのかと思って、おたずねしてみたのよ。すると恭一さんから、さっきの大沢さんのお話のようなことをきかしていただいたんでしょう。あたし、それだけでも、もう心配で心配でたまらなかったんですのに。……配属将校って、普通の先生よりよっぽどきびしいっていうんじゃありません?」
 次郎は、道江のそんな言草に真実性がないとは思わなかった。しかし、恭一と組みになって自分に話しかけて来るような彼女の態度が、彼の気持をかきみだした。また、彼女が駅での出来事を恭一にきいたと言ったのも、変に彼の耳を刺戟した。
 彼は道江の顔をちょっとのぞいたきり、すぐ恭一に向かって抗議するように言った。
「配属将校だから、僕、よけい默って居れなかったんだよ。」
「しかし、今の場合、少し無茶だったね。」
「そうよ、次郎さんはいつも気みじかすぎるわよ。」
 また道江が口をはさんだ。次郎は何かかっとするものを胸の中に感じながら、むっつりしていた。すると、大沢が微笑しながら言った。

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