たのは、少し立ち入ってたずねたいことがあったからだ。」
次郎は少佐をまともに見た。彼はきちんと姿勢を正していた。
「ゆうべ君はどこにいた。」
「うちにいました。」
「うちで何をしていたんだ。」
「友だちと会をしていたんです。」
「会というと何の会だ。」
「白鳥会です。」
「白鳥会というのは、これまで朝倉先生のうちでやっていたあの会のことか。」
「そうです。」
「それをどうして君のうちでやったんだ。」
「ほかにやる場所がなかったからです。」
「ほかにない? ふむ、……で会のある日は、いつもきまっているのか。」
「これまではきまっていました。毎月第一と第三の土曜でした。」
「昨日は、しかし、土曜ではなかったね。」
「ええ、昨日は特別です。」
「特別というと?」
「朝倉先生の送別会でした。」
「すると朝倉先生もむろん列席されたわけだね。」
「そうです。奥さんにも来ていただきました。」
少佐は何かひょうしぬけがしたような顔をしていた。そして例の上眼をつかって、まぶたをぱちぱちさせていたが、
「すると、べつに秘密に集まったというわけではなかったんだね。」
次郎はちょっと眼を見張ったが、すぐ、
「ええ、朝倉先生には秘密だったんです。」
答えてしまって、次郎は自分の頬に皮肉な微笑がうかぶのを覚えた。
「朝倉先生に秘密っていうと。」
「先生は送別会なんかやっちゃいけないって言われたんです。」
「ふうむ、先生が? それはなぜかね。」
「なぜだか知りません。」
次郎は少佐をにらむように見つめた。
「しかし、先生に秘密で集まったのに、先生が列席されたというのは変だね。」
「僕の父が先生を夕飯にお招きしたんです。」
「なるほど、すると、ゆうべのことは君のお父さんの計画だね。」
「僕が父にそうして貰いたいってねだったんです。」
「そうか。それで何もかもわかった。それで君のお父さんもその席に出られたというわけだね。」
次郎はあきれたように少佐の顔を見ていたが、
「先生は、ゆうべのこと、もう何もかもご存じですか。」
「うむ。大体は知っている。私の方には、もういろんな報告があつまっているんだ。」
と、少佐はいかにも勿体《もったい》らしく言ったが、
「しかし、君もよく白状してくれた。君の白状で事情が一層はっきりしたんだ。」
次郎の耳には、白状という言葉が異様にひびいた。そして次の瞬間には、たまらない侮辱を感じてテーブルの下で両手をぎゅっと握りしめた。
すると少佐は、急にはじめのくだけた態度になり、
「わしも、君にかくす気がないということがわかって、すっかり安心した。かくす気があるかないかが、実は君の幸福のわかれ目だったんでね。」
次郎はやはりテーブルの下で手を握りしめたまま、つめたい眼で少佐を見かえしていた。
「それで、ついでにもう少したずねたいことがあるんだ。しかし、そのまえに、君に誤解されてもつまらんから、ちょっと断っておきたいことがある。それは配属将校としてのわしの立場だ。わしは、ただ君らに、右向け左向けを教えるために学校に来ているんではない。わしの任務は君らの思想善導なんだ。君らが国家というものに十分眼を覚まして、健全な思想の持主になってさえくれれば、形にあらわれた教練の成績なんか、実は大した問題ではないんだ。で、わしは、いつも、わしが配属されているかぎり、この学校から、思想問題でとやかく言われるような生徒を一名も出したくないと思っている。だからこそ、わしは、家内にもよく言いふくめて、君らと親しくして行くようにつとめているんだ。わしの気持をよく理解して、ひとつ、何もかも打ちあけたところを話してくれたまえ。君がそういう打ちあけた態度にさえなってくれれば、たとい君の過去にどんなことがあったにせよ、わしは全力をつくして君を保護するつもりだ。いいかね。……それともう一つ断って置きたいのは、わしは決して朝倉先生を人格的に疑ってはいないということだ。朝倉先生は、人格という点からいうと、実際りっぱな先生だった。学校中におそらく先生に及ぶほどりっぱな先生はあるまい。君らが先生を崇拝していたのも無理はないと思うんだ。ただ問題は先生の思想だね。先生は、何といっても、米英的なデモクラシーの思想から一歩もぬけ出てない自由主義者だったんだ。伊太利や独逸におこっている新しい国民運動にもまるで理解がなかったし、日本でせっかく芽を出しかけている政治革新運動に対しても、共産主義と紙一重だなんて言って非難していられたんだ。第一、先生には、日本の東亞における使命とか理想とかいうものが、はっきりつかめていなかったようだ。だから、なぜ若い軍人が非常手段にまで訴えて政治革新に乗り出すのかがわからなかったんだと思う。あれだけのりっぱな人格者でありながら惜しいもんだ。あれで思想的な頭のきりかえさえ出来たら、全く得がたい教育者だと思うがね。」
次郎は少佐の言うことにも一理あるような気がしないでもなかった。とりわけ日本の使命とか理想とかいう言葉には、何かしら心がひかれ、その内容について、もっと説明してほしいという気もした。しかし、彼にとって何より大事なのは、人間の誠実だった。誠実な人間の思想だけが信するに足る思想だ。下劣な策略だけに終始している少佐のいうことに、何の権威《けんい》があろう。そう思って彼は相変らず少佐の顔を見つめたまま、默りこくっていた。
少佐は、次郎がまだ少しも自分に気を許していない様子を見てとると、さすがにむかむかした。生意気な! という気持が胸をつきあげるようだった。サイダーや、羊かんや、西瓜が、運ばれたままちっとも手をつけられず、テーブルの上にならんでいるのを見ると、いよいよ腹が立った。しかし、腹を立ててしまっては、せっかく私宅にひっぱって来た甲斐がない。学校でならとにかく、私宅にまでひっぱって来て失敗したとあっては、配属将校の面目にもかかわる。それに、こういう頑固な生徒を改心させてこそ、思想善導の責任も十分果せるというものだ。そう思って彼はじっと腹の虫をおさえた。そして、強いて微笑しながらたずねた。
「どうだい、わしの気持はわかるかね。」
「わかります。それで、どんなことですか、先生が僕にききたいと仰しゃるのは。」
次郎はもう面倒くさそうだった。
「いや、大したことでもないさ。どうせ大たいわかっていることでもあるし、――」
と、少佐はわざとのようにそっぽを向いて言ったが、
「つまり、大事なのは君らの思想なんだ。それで、朝倉先生が最後にどんなことを君らに言われたか、それがききたいんだ。それをきいたうえで、なお君に話すことがあるかも知れんがね。」
次郎はちょっと考えた。が、思いきったように、
「これからは、良心の自由が守れないような悪い時代が来るから、しっかりするようにって言われたと思います。」
「良心の自由が守れない?」
「ええ、つまり時代に圧迫されたり、だまされたりして、誰もが自分の良心どおりに動けなくなるっていう意味だったと思います。」
「ふむ。それで君はどう思う。」
「ほんとうだと思います。朝倉先生は、うそは言われないんです。」
「先生が言われたから、そのまま信じるというんだね。」
「そうです。僕はりっぱな先生の言われることなら信じます。」
「しかし――」
と、少佐は何か意見を言おうとしたが、思いかえしたように、
「まあいい。まあ、それはそれでいいとして、ほかに何か言われたことはないかね。」
「要点はそれだけだったんです。」
「満州事変については何も言われなかったんだね。」
次郎はまたちょっと考えた。しかし、やはり思いきったように、
「言われました。ああいう事件は、どうかすると、国民に麻酔薬をのまして、反省力をなくさせる危険がある、といったような意味だったと思います。」
「そんなことを言われたのか。」
「僕、はっきり言葉は覚えていないんです。」
「しかし、大たいそんな意味だったんだね。」
「そうだと思います。」
「それについて君はどう思う? やはりその通りだと思うかね。」
「思います。」
「それも朝倉先生が言われたから信じるというんだな。」
「そうです。」
「ふうむ。……それで、ゆうべ集まったのは幾人ぐらいだった?」
「三十人ぐらいです。」
「名まえもむろんわかっているだろうね。」
「わかっています。」
「あとでわしまでその名前を届けてくれないかね。」
「そんな必要がありますか。」
「ある。」
「じゃあ、届けます。」
二人の問答はもう何だか喧嘩腰だった。
「ついでに、もう一つたずねるが、――」
と、少佐は次郎の顔をにらみすえながら、
「白鳥会は今後もつづけてやるつもりなのか。」
「やるつもりです。」
「朝倉先生がいられなくても?」
「ええ、やります。朝倉先生もつづけてやるのを希望していられるんです。」
「すると、これからはどこで集まるんだ。」
「僕のうちで集まります。」
「君のうちで? しかし、先生は?」
「先生はなくてもいいんです。」
「生徒だけで集まろうというんだね。」
「そうです。」
「そんなこと、君のお父さんに相談したのか。」
「しました。」
「許されたんだね。」
「ええ、許しました。」
「ふうむ、――」
と、少佐はしばらく眼を伏せていたが、
「いったい、どうして君のうちで集まることになったんだ。」
「みんなで決めたんです。」
「しかし誰かそれを言い出したものがあるだろう。」
「言い出したのは朝倉先生です。」
「朝倉先生が? それはゆうべのことか。それとも……」
「ゆうべです。」
「すると、その時、君のお父さんも、その場にいられたんだね。」
「居りました。」
「すぐ賛成されたのか。」
「ええ、すぐ賛成しました。」
「まえもって先生と相談されていたようなことはなかったかね。」
「知りません。」
「これからの集まりには、お父さんはどうされる?」
「どうするか知りません。」
「朝倉先生に代って、みんなを指導されるような話はなかったね。」
「父にはそんなことは出来ないんです。」
少佐はにやりと笑った。次郎は、その笑い顔を見ると、たまらなく腹が立って来た。彼はいきなり立ちあがって、
「僕、もう帰ってもいいんですか。」
少佐の笑顔はすぐ消えた。彼はじっと次郎を下から見あげていたが、また急に作り笑いをして、
「いや、ありがとう。たずねることはもうほかにはない。しかし、君に忠告して置きたいことが一つ二つあるんだ。まあ、かけたまえ。」
次郎はしぶしぶまた腰をおろした。少佐はひげをひねりはがら、眼をぱちぱちさせたあと、少しからだを乗り出して言った。
「君は案外単純な人間だね。」
次郎自身にとって、およそ単純という批評ほど不似合な批評はなかった。彼は、それを滑稽にも感じ、皮肉にも感じて、われ知らずうすら笑いした。
「単純なのはいい。単純な人間は正直だからね。君のさっきからの答えぶりなんか、全く正直だった。その点で、わしはきょう君と話してよかったと思っている。しかし、単純も単純ぶりで、君はどうかすると怒りっぽくなる。それが君の一つのきずだ。気をつけるがいい。」
少佐はそこでちょっと言葉をきって、次郎の顔をうかがった。次郎は、怒りっぽいという批評は必ずしも不当な批評でないという気がして、ちょっと眼をふせた。
「しかし、怒りっぽいぐらいは、まあ大したことではない。それよりか、――これは今の場合、特に君にとって大切なことだと思うが、――迷信家にならないように気をつけることだ。とかく、単純な人間は迷信に陥りやすいものだからね。」
次郎にはまるでわけがわからなかった。少佐自身としては、そんな表現を用いたことが何か哲学者めいた、一世一代の思いつきのように思え、また、それがきっと次郎の急所をつくにちがいないと信じ、内心大得意でいたが、次郎にしてみると、迷信などという言葉は、あまりにも自分とは縁遠い言葉だったのである。
二人はただ眼を見あっているだけだった。
「わからんかね。」
少佐がしばらくして言った。
「わかりません。僕が迷信家に
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