姿勢になった。それは生徒の中のよほどの飛びあがりものででもなければやらない仕草だった。生徒たちは、それを見てやんやとはやし立てた。彼は、しかし、生徒たちのさわぎにはまるで気がついていないかのように、ただ一心に列車の方を見つめていた。
 列車はまもなく発車した。
 機関車が生徒たちのまえを通るころは、速力はまだごくのろかった。しかし、客車が二台三台と通るにつれて、それは次第にまして行った。次郎がつぎつぎに近づいて来る客車の窓を注意ぶかく見つめていると、五台目の中ほどの窓から、あわてたように上半身を乗り出した人があった。それはまぎれもなく朝倉先生だった。そしてその同じ窓から、夫人も窮屈そうに、顔だけをのぞかせていた。
 次郎は夢中になって帽子と手拭をふった。列車はもうかなりの速度を出していたので、先生夫妻の顔が生徒たちの並んでいるまえを通るのはすぐだった。二人は何度も何度も顔をあげさげして、生徒たちに会釈《えしゃく》した。しかし、一人はなれている次郎には、まだ気がついていないらしい。
「先生!」
 次郎は二人の顔が自分の直前に来る少しまえに、たまりかねたように叫んだ。それも、しかし、車輪の音と群集の叫び声との中では、何のききめもなかった。二人の眼は、依然《いぜん》として生徒の群にそそがれたまま、二間、三間と通り過ぎて行った。
「せーん、せーい。」
 次郎は、もう一度根かぎりの声で叫び、帽子と手拭をにぎった両手を、上体ごと、大きく左右にふった。
 すると、夫人がやっと彼に気がついたらしく、視線がぴたりとあった。次郎には、夫人の眼が悲しげに微笑しているように思えた。
 先生の眼は、しかし、まだ生徒たちの群にそそがれたままである。彼はもうだめだと思った。その瞬間、夫人の白い手がだしぬけに窓からのびて、彼の方を指さした。先生に注意をうながしたものらしい。
 やっと先生の眼が彼の方に注がれた。彼の胸は悦びにおどった。双方の視線は針金のように結びついた。しかし、次郎にとって、それは何という不思議な瞬間だったろう。彼は、先生の眼から、これまでかつて見たことのない、険《けわ》しい、つめたい光がほとばしっているのを見たのである。
 彼の視線は、石をぶっつけられた電線のようにふるえた。しかし、眼をそらしてしまうには、それは彼にとってあまりにも貴重な瞬間だった。先生の最後の眼、それがたとい彼の予期したものとは全くちがった眼であったとしても、いや、ちがった眼であればあるほど、それを最後まで凝視することが、いまは彼の宿命ともいうべきものだったのである。
 先生の眼は次第に遠ざかった。険しい眼なのか、温かい眼なのか、そしてその視線がどこに注がれているのかさえ、もうまるで判別がつかないほど遠ざかった。けれども、次郎の眼は一心にそれを追った。
 最後に次郎は、男の顔とも女の顔とも見わけのつかない二つの顔が、線路のゆるやかなカーヴのうえで次第にかすめ取られ、ついに全く消えうせたのを見た。
 彼は、それでも、まだ、茫然《ぼうぜん》として列車のあとを見おくっていた。帽子と手拭とをにぎっていた彼の両手は、もう、だらりと柵の上にたれていた。
 彼が柵をおりたのは、列挙が町はずれの小さな鉄橋を渡りおえて全くその影を没してから、大方二分近くもたったあとのことであった。
 生徒たちの群は、もうその時にはほとんど散っていた。そして、がらんとなった空地に、配属将校の曾根少佐が、四五人の生徒を相手に何か立ち話をしていた。次郎は見たくないものを見たような気がした。それは、生徒の一人が馬田だということに気がついたからであった。
 曾根少佐は馬田たちと話しながら、眼だけはたえず次郎の方に注いでいるらしかった。次郎は、まだその時まで左手ににぎったままでいた手拭を、あらためて腰にさげ、帽子をかぶって、服装をととのえたあと、曾根少佐の方に近づいて挙手の礼をした。少佐はすぐに答礼したが、いつもの歯をむき出したあいそ笑いはしなかった。そして次郎がそばを通りぬけようとすると、
「あっ、本田、ちょっと待合室で待っていてくれないか。用があるんだ。今すぐ行くからね。」
 と、いかにも急に用事を思い出したかのような調子で言った。
 次郎は、不快というよりか、何か不潔な感じがした。しかし、強いてこばむことも出来ず、すぐ待合室に行って空いた席に腰をおろした。
 腰をおろした彼は、曾根少佐の用事はいったい何だろうと考えた。馬田との立ち話もいくらか気になった。しかし、そんなことよりも彼にとって大事だったのは、朝倉先生の最後の眼だった。その眼がすべてを押しのけて、彼の眼底にちらつき出した。
 険しい眼だった。朝倉先生の眼とは思えないほどつめたい、険しい眼だった。それは訣別《けつべつ》の悲哀を物語る眼だったのか。断じてそんなものではない。先生の眼が、そんなことで、あんなにつめたく、あんなに険しくなろうとは、とうてい想像も出来ないことなのだ。
 ではあの眼は何を意味する眼だったのか。――彼は急に、あの時の自分の仕草を省みて、ひやりとした。
 飛びあがりもの! ただ自分を眼立たせたいためばかりに、ひとり列をはなれて軽業師のような真似をしていた飛びあがりもの! そんなことは、馬田のような生徒でもめったにやらないことではないか。白鳥会員として自分はいったいこれまで何をして来たのだ。ご本尊の朝倉先生のお見送りをするというのに、このざまはいったいどうしたことなのだ。
 彼はそう考えて、自分が今何のために待合室のベンチに腰をおろしているのかさえ忘れていた。
 すると、うしろから軽く彼の肩をたたいたものがあった。はっとしてふりかえると、曾根少佐が、その大きな口に真白な前歯を見せて立っていた。
「きょうはどうしても君にたずねて置かなくちゃならんことがある。しかし、こんなところでは工合がわるい。もう一度学校に引きかえしてもらうか、それとも、わしの家に来てもらうか、どちらでもいいんだが……」
「学校の方がいいんです。」
 次郎は少佐がまだ言葉をきらないうちに答えた。
「そうか、しかし、学校だと、今からじゃかえって目立つぞ。」
「目立ってはわるいんですか。」
「わしはかまわんが、君が……」
「僕もかまわんです。」
 次郎は何かやけくそなような気持になって答えた。
「そうか、じゃあ、学校に行こう。」
 二人は待合室を出た。一丁ほど、どちらからも口をきかないで歩いていたが、少佐はすぐ近くの街角を指さしながら、
「わしの家は、あれからはいって五分ほどのところだがね。どうだい、わざわざ学校まで行かんでも、わしの家に来ては。学校ではもうお茶ものめんし、それに今頃は小使が職員室を掃除しているころだろう。」
 次郎は、少佐が何で自分をそれほど自宅につれて行きたがるのか、わからなかった。それには何かいやしい魂胆《こんたん》があるのではないかと思った。で、是が非でも学校に引きかえしたいという気でいた。しかし、また一方では、皮肉とも好奇心ともつかぬ一種の感情がうごいていた。それに、自分がもし近い将来に、学校革新のために戦う機会が来るとすれば、少佐が何を考え、何を生徒に要求しようとしているのか、その本心を出来るだけくわしく知っておく必要がある。それには自宅に行ってゆっくり話す方がいいのかも知れない。そんな気むした。彼は、そうした考え方に何か不純なものを感じながらも、つい答えてしまった。
「お宅がそんなに近いなら、行ってもいいんです。」
「来てくれるか。」
 少佐は歯をむき出してにやりと笑った。そして、
「それがいいんだ。それがいいんだ。なあにたいていのことは固くならないで話しあってみれば、わけなく解決することなんだよ。それが学校でだと、お互いにそうはいかんのでね。」
 と、先に立って街角をまがった。
 少佐の住居は、古風なこの町の建物にしては珍らしく洋間のついた家だった。次郎はすぐその洋間に通された。彼は個人の家の洋間などまだ一度も中にはいって見た経験がなかったので、ちょっとまごついた。入口に棒立になって室内を見まわしていると、少佐は上衣をぬいで長椅子にほうり投げながら言った。
「窓ぎわがすずしくていい。その籐《とう》椅子にかけたまえ。」
 それから、奥の方に向かって、
「おうい、学校の生徒さんだ。何かつめたいものを持ってこい。」
 と、大声で叫んだ。
 次郎は言われるままに少佐と向きあって籐椅子にかけたが、その部屋にまだなれないせいもあって、よけいに落ちつかない気持だった。
 彼は一わたり室内を見まわした。セットや装飾品のよしあしは彼には皆目《かいもく》見当がつかなかったが、それでも何かまぶしいような感じをうけた。そして、これまで訪ねた中学校の先生たちの貧乏ったらしい家の様子にくらべて、何というちがいだろう、学校の先生と軍人とでは、こんけにも生活にひらきがあるのだろうか、と思った。
「君、上衣をぬげよ。あついだろう。」
 少佐が言った。
「僕、シャツを着てないんです。」
「かまわん。はだかになるさ。どうせきょうはすっぱだかで話してもらいたいんだからね。ははは。」
 次郎は眼を光らせて少佐を見たきり、固くなっていた。
 そこへ、はでな浴衣を着た、三十五六の肥った女の人が、盆にサイダー瓶とコップとをのせてはいって来た。
「いらっしゃい。……はじめての方ですわね。」
 盆をテーブルの上にのせながら、そう言って、彼女は次郎と少佐とを見くらべた。
「うむ、はじめてだ。本田っていうんだ。五年の錚々《そうそう》たる人物だよ。」
「あら、そう。よくいらっしゃいましたわね。」
 次郎は二人になぶられているような気がしたが、素直に立ち上ってお辞儀をした。お辞儀をしながら見た少佐夫人の顔には白粉がこってり塗られており、まるっこい鼻の頭には脂《あぶら》が浮いていた。
「何かたべるものを持って来いよ。」
「ええ、すぐ。」
 夫人が二人にサイダーをついだあと引っこむと、少佐はいかにも得意そうに言った。
「家内は兵隊を非常に可愛がる方だが、兵隊よりは学生の方がもっと好きらしいんだ。わしが配属将校になったんで大喜びさ。」
 次郎は不愉快になるばかりだった。やはり学校の方に行けばよかったと思った。で、ついでもらったサイダーにも口をつけず、むっつりしていた。
 そのあと、夫人が何度も出はいりして、羊かんやら西瓜やらを運んで来たが、そのたびごとに、少佐は、これまでに訪ねて来た生徒たちの噂をもち出して、夫人との間に冗談まじりの会話をとりかわすのだった。それは、いかにも自分たちが生徒に親しまれているのを次郎に示したがっているかのようであった。その中にはこんな対話もあった。
「しかし、こないだの鋤焼《すきやき》会には弱ったね、暑くて。」
「ほんとに、八畳の間に三つも七輪を置いたんですもの。生徒さんて、夏も冬もありませんわね。この暑いのに、わざわざ鋤焼をおねだりなさるなんて。」
「わしらも、士官学校時代には、真夏でもよくやったもんさ。」
「でも、みなさんは面白い方ばかりですわね。」
「それぞれに何かかくし芸までやるのには、わしもおどろいたよ。」
「あの詩吟のうまい方、何という方でしたっけ。あの時はじめていらっした方ですけれど。……」
「馬田だろう。」
「そう、そう、馬田さん。……あの方のお父さんは県会議員ですってね。」
「そうだ。今どきの議員にしちゃあ、めずらしい議員だよ。非常な国家主義者でね。」
 次郎は、馬田の最近の動静を、それでおぼろげながら窺《うかが》うことが出来たような気がした。しかし、そのために、彼の不愉快さは一層つのるばかりだった。彼はあくまでも口をきかず、出された食べものにも手をつけようとしなかった。
 それで少佐も夫人も次第に気まずそうな顔になり、おしゃべりもとだえがちになった。そして、とうとう夫人は次郎を尻目にかけるようにして、部屋を出て行ってしまった。
 夫人が出て行ったあと、少佐はしばらく何か考えていたが、急に厳格な態度になって言った。
「きょう君にわざわざ来てもらっ
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