ございますが……」
夫人は鼻をつまらせた。そしてしばらく言葉がつづかなかったが、急に顔をあげて涙のたまった眼をしばたたき、強いて微笑をうかべながら、
「何だかめ入ってしまいますので、これでよさしていただきます。その代りに、これは私の最後のおてんばでございますが、次郎さんが、いつか私に、どなたにも秘密だとおっしゃって、こっそり見せていただいたお歌をすっぱぬくことにいたします。それは、こういうお歌でございます。」
そう言って、夫人はつぎの歌を二度ほどくりかえした。
[#ここから2字下げ]
われをわが忘るる間なし道行けば硝子戸ごとにわが姿見ゆ
[#ここで字下げ終わり]
それから、また言葉をついで、
「次郎さんは、このお歌は、白鳥会の精神とはまるであべこべな心の秘密をうたったもので、人に見せるのは恥かしい、とおっしゃいました。なるほど一ときも自分を忘れることが出来ないということは恥かしいことでございます。けれど、考えてみますと、たいていの人は、そんな人間でございます。そして、そんな人間でありながら、そのことに気がつかないで、いい気になっているものでございます。それこそなお一そう恥かしいことではございますまいか。私は次郎さんのこのお歌を拝見いたしました時に、はっとそのことに気がついたのでございます。自分を忘れることの出来ない自分の醜《みにく》さに、悩みを感じないでは、白鳥会の精神も何もあったものではないと、そう思いまして、私がそれまで、あんまりいい気な人間であったことに、はっきり気がついたのでございます。そのあと、私は何かにつけ、次郎さんのこのお歌を、良寛さんのお歌といっしょに、心の中でくりかえすことにいたしております……。次郎さんの秘密のお歌をすっぱぬいて、おてんばをするつもりなのが、つい自分のざんげ話のようなことになりまして、まため入りそうな気持になってまいりました。これで失礼さしていただきます。」
みんなの視線は、夫人と次郎とに半々にそそがれていた。そしてやや間をおいて思い出したように拍手が起った。次郎はあごを胸にめりこませるようにして顔を伏せていた。
そのあと、大沢の音頭で座をくずし、みんな窓の近くによって、月を見ながら雑談することにした。
月はもうかなり高かった。満月をすぎてわずかに欠けはじめた光の塊《かたまり》が、横長くひいた雲のへりを真白に光らせてその上に浮いていた。稲田ははろばろとけぶり、土手の松並木はくろぐろとしずまりかえっている。
それからの話題はまったくさまざまだった。むろん、みんなが一かたまりになって話すというのではなかった。あるいは三人、あるいは五人と、それぞれにちがった話題をとらえて議論もし、冗談も言いあった。そして、彼らの複雑な感情が、あるところでは興奮に、あるところでは高笑いに、またあるところでは沈默に、彼らをさそいこむのだった。しかし、朝倉先生夫妻や俊亮が何か言い出すと、どのかたまりも、自分たちの話をやめて、その方に耳を傾けるといったふうであった。
そうした雑談の中で、かなり永い間みんなの注意をひきつけたのは、恭一の高校生活の話だった。彼はそれまで一度も発言しなかったという理由で、上級の生徒たちにわざわざその話を求められたのだった。大沢もそれにはおりおり口をはさんだ。しかし、主として話したのは恭一だった。学寮における自治生活の話がその大部分で、自主的に、いろいろの面から共同生活を建設して行く楽しみを語った。そして最後に彼はこんなことを言った。
「そりゃあ中には学生の特権だなんていって、どうかと思うようなことを主張するものもいるし、その結果、一般社会の物笑いになるようなこともあるにはあるさ。しかし、とにかく、みんなの意見を綜合して、自主的に自分たちの生活を組立てて行っている点は、何といっても高校生活の一大特長だよ。第一それでこそ人間がほんとうの意味でねられて行くんだからね。命令服従の関係だけで、形をととのえるために人間を機械化しているこのごろの謂《いわ》ゆる錬成とは比較にならんよ。もっとも最近では、高校にもそろそろ錬成の風が吹きこんできたようだ。もし高校がその風に吹きまくられるようになったら、何もかもおしまいだね。これは高校生だけの問題じゃない。高校がそうなることは将来の日本の指導層がそうなることであり、従って日本全体の問題だと僕は思うんだ。そこで、僕、いつも考えていることなんだが、僕たち高校生としては、高校生活そのものに、そんな風が吹きこむすきを作らないようにしなければならない。それには、先ず第一に、僕たち自身が、学生の特権なんていう一般社会に通用しない観念から、完全に脱却することが必要だし、第二には、識見の高い、情操のゆたかな、人間として十分尊敬に値する先生に、顧問格になってもらって、いつも、僕たちの人間修業なり自治生活なりの基礎になるような、いろんなヒントを与えてもらうことが必要だ。僕はそんな考えで、学寮でたびたび意見をのべてみたこともあるが、残念なことには、現在の僕たちの学校の様子では、そのどちらも見込みがなさそうだ。学生の側では、学生の特権をすてるのも、先生の指導をうけるのも、自治に矛盾すると勘ちがいしているし、先生の側では、どの先生も君子危きに近よらずで、早晩お上から錬成の風が吹いて来るのを心待ちにしている、といったような状態だからね。もし全国の高校がこの調子だと、或いは諸君が高校にはいる頃には、もうほんとうの意味の高校生活なんてどこにもなくなっているかも知れない。僕は、それを思うと、諸君がたとい中学時代だけでもこうして白鳥会にはいって、謂ゆる錬成でない、ほんとうの人間修行をやっていることは非常な幸福だと思うよ。」
みんなの解散したのは十一時に近かった。解散するまえに、朝倉先生の東京における新しい住所がみんなの手帳に書きこまれた。
恭一、次郎、大沢の三人も、先生夫妻を見おくって、土手を大かた二丁ほど歩いたが、わかれぎわに先生は、三人の手を代る代る握って、言った。
「そのうち、きっと、君らといっしょに何か大事な仕事をやる機会が来そうだ。私にはそんな気がしてならない。」
三人は、めいめいに先生のこの言葉の意味を味わいながら、默々として帰った。
月はみがきあげたように光っていたが、三人ともそれを仰ごうともしなかった。
一三 送りの日
朝倉先生の送別式は、翌日の午後、型どおりに行われた。それは全く型どおりであった。何かにおびえたような、きょときょとした花山校長の態度と、生徒たちの顔をたえずさぐるように見まわしていた西山教頭や曾根少佐の眼が、いくらか生徒たちの嘲笑と反感とを招いたというほかは、何のへんてつもない、きわめて平凡な送別式であった。朝倉先生は、ほんの三分ばかり、これまでのどの先生の告別の辞よりも形式的だと思われるようなあいさつをしたに過ぎなかったし、生徒を代表して平尾が述べた送別の辞も、どの先生にも適するような、お定まりの言葉の羅列《られつ》にすぎなかった。また、全校生徒が特別に一円ずつ醵金《きょきん》して贈呈するはずであった記念品も、まだ用意が出来ていなかった。そして、送別式がすんで、生徒たちがまだ講堂から出きらないうちに、朝倉先生は、もう、玄関に待たしてあった人力車にとびのって、駅の方へ急いでいたのであった。
送別式に何かの波瀾《はらん》を予想し、興味本位でそれを期待していた生徒たちも決して少くはなかった。彼らは、見送りのために校庭に集合しながら、くちぐちに言った。
「つまんなかったなあ。……朝倉先生、もっと何か言うかと思っていたよ。」
「僕は、先生の最後の雄弁をきくつもりで張りきっていたんだが、がっかりしたね。」
「何んだか、ばかにされたような気がするね。」
「うむ。しかし、校長はほっとしたんだろう。」
「校長を安心させて、僕たちを失望させるって法はないよ。」
「朝倉先生も今日はどうかしていたね。」
「妥協したんじゃないかな。」
「そうかも知れん。でなけりゃあ、もう少しぐらい何か言うはずだよ。」
「しかし、辞職してしまってから妥協したって、何にもならんじゃないか。」
「これからさきのことを考えたんだよ、きっと。」
「ふうん、そうかもしれんね。」
「このごろは、一度憲兵ににらまれた人は、よほどおとなしくしないと、日本国中どこに行ってもにらまれるそうだからね。」
「そんなこと、誰にきいたんだい。」
「曾根少佐が言っていたよ。」
「なあんだ、やっぱり蟇《がま》の言ったことか。」
「あいつ誰にでもそんなこと言うんだね。僕もきいたよ。」
「朝倉先生も、ひょっとすると蟇におどかされたのかも知れないね。」
「まさか。」
「しかし、朝倉先生の豹変《ひょうへん》ぶりは、とにかくおかしいよ。あれじゃあ、先生がいつも言っていた信念なんて、あやしいものだね。」
次郎は、そんな対話を耳にして、なさけなくも思い、腹も立った。しかし彼は先生のために弁解してみる気には、少しもなれなかった。どうせ衆愚《しゅうぐ》というものはそんな程度のものだ。そう思って、心の中で冷笑していた。
駅の見送りには、生徒たちは一人も歩廊に入らず、駅から東寄りの線路の柵外に整列して見送る慣例になっていた。八百の生徒がせまい地域に整列するので、距離も間隔もない一かたまりの集団になるよりほかはなかった。五年が最前線だった。次郎はその右翼から五六番目のところに位置していた。
彼は、柵にからだをよせかけながら、何度も腕時計を見た。東京行連絡の急行は、三時五分発になっていた。あと十五分、十分、七分、と、時計の秒をかぞえながら、周囲のさわがしさの中に、ひとりで淋しさを味わっていた。
生徒たちの中には、いつの間に用意したのか、小旗などをもっているものもあった。彼らは、もうさっきからそれをふりまわして、兵隊でも送る時のようにはしゃいでいた。それが彼を一層さびしくさせた。彼は、自分が小旗を用意しなかったことを悔《くや》む気になど少しもなれなかった。しんみりと、落ちついて、ふかく物を考えながら先生を見送りたい。彼はそんな気持で一ぱいだった。
きっかり三時。あと五分。先生ももう歩廊に出られたにちがいない。そう思って彼は上りの歩廊に眼を走らせた。しかし、そこは彼の位置からはかなり遠かった。ただ手荷物をさげた沢山の人がこみあっているのが見えるだけだった。
まもなく列車がすべりこんだ。上りの歩廊は、その列車のかげにかくれて、もうまるで見えない。機関車が威圧《いあつ》するようにこちらをにらんで、大きな息をはいている。
彼は、その機関車に眼をすえているうちに、ふと、もうこのまま先生と視線をあわす機会がないのではないか、という気がした。むろん先生は、車窓から顔を出して生徒たちにあいさつされるにちがいない。だから、自分の方から先生のお顔が見えることはたしかである。しかし、それだけでは物足りない。先生にも自分の方を見てもらいたいのだ。それは何も、自分がここで先生を見おくっているのを認めてもらいたいためではない。そんなことはどうでもいいことだが、ただ、先生の眼と自分の眼とが出っくわす瞬間が、もう一度ほしい。先生の眼だけではない、奥さんの眼とも……。
彼のこの願いは、ほとんど衝動的《しょうどうてき》だった。それでいて何か無視出来ない厳粛な願いのように感じられた。もしその一瞬が得られないで汽車が遠のいてしまうとしたら、……彼はそう思っただけでも、もう何もかもがめちゃくちゃになる気さえした。
彼は急に、それまで寄りかかっていた柵をはなれ、右側にならんでいた五六人の生徒をおしのけるようにして、最右翼に出た。そこは小さな倉庫みたような建物で限られており、それ以上生徒のならぶ余地はなかったが、倉庫と柵との間には、やっと人ひとり歩けるほどの空地があった。彼はその空地を一間ほどはいりこむと、柵の一番上の横木に飛びのり、片足を建物の板壁にかけてつっ立った。それから、右手に帽子、左手によごれた手拭をつかみ、何か信号でもやりそうな
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