。笑わなかったのは恭一と次郎だけであったが、二人とも、もう顔はふせていなかった。
 拍手がやむと、大沢があらためて俊亮に何か話すように求めた。
 俊亮は一たんかぶりをふったが、すぐ、何か思いあたったように、大きくうなずいた。そして、大沢がまだ十分尻をおちつけないうちに、言い出した。
「私の商売は養鶏です。これからは君らの小父さんにもなるわけだが、それは私の商売ではない。だから、君らのお世話をやくよりか、自然鶏の世話をやく方が多かろうと思う。むろん、朝倉先生のように朝から晩まで君らのことばかり考えているというわけにはいかない。かりに考えても、ろくなことは考えないだろうと思う。だから考えないことにする。鶏のことは一所懸命に考えるが、君らのことはあまり考えないことにする。こう言うと、人間よりも鶏を大事にするようだが、そうでない。自分の商売でもないことを、あまり立ち入って考えたら、かえって君らの人間を駄目にするだろうと思うから、考えないつもりである。つまり、君らの人間を大事に思うから考えない。そう思っていただきたい。もっとも、君らの方から何か相談ごとがあったら、それは君らの小父さんとしていくらでも相談にのる。鶏のことはほって置いても相談にのるつもりでいる。相談にのるというのは、むろん教えることではない。相談はあくまでも相談だ。第一、私は先生でないから教えることは出来ん。しかし、みんなといっしょになって話しあうことなら出来る。だから、いつでもひっぱり出してもらいたい。まあ、私に出来ることはそんなことですが、どうでしょう、朝倉先生、それでは先生のあとつぎにはなれませんかな。」
 俊亮はくそまじめな顔をして朝倉先生の横顔をのぞいた。朝倉先生は、さっきからにこにこして俊亮の話をきいていたが、
「結構ですとも。私もこれまで、それ以上のことは何もやって来なかったんです。みんなで考える。みんなが勇敢にもなり謙遜《けんそん》にもなって正しい考えを生み出す。そういうところに、白鳥会の精神がありますからね。」
「よくわかりました。では、ついでにもう一つ――」
 と、俊亮は、またみんなの方を向いて、
「これは商売がら言って置くが、私は鶏が可愛い。つぶしてたべたいとはめったに思ったことがない。また、片っぱしからつぶしていては商売にならない。だから、今夜のようなことは、そうたびたびあることではない。あるいは二度とないことかも知れない。万々一にも、諸君の中に、鶏をご馳走したために私をいい小父さんだと思っている人があるとすると、その人はきっと失望するにちがいない。それはあらかじめ断っておく。なぜ私がこんな変なことをわざわざ言うかというと、それは白鳥芦花に入る会が、鶏肉胃袋に入る会になってしまっては、先生に対して申しわけないと思うからだ。もっとも、鶏を飼うのは結局は人間のためなんだから、ほんとうに人間の役に立つと思えば、いくら可愛ゆくとも、またまるで商売にはならなくとも、いつでもそれを犠牲にする肚は私にもある。今夜もそのつもりで幾羽か犠牲にしたわけだ。今頃は多分諸君の腹の中で、諸君の朝倉先生に対する真実と溶けあって、鶏もいい気持になっていることだろう。」
 俊亮はそう言って哄《こう》笑した。俊亮の笑声につれて、みんなも笑った。しかし、その笑声には、変に固いところがあり、何かにつきあたったように、ぴたりととまった。大きい生徒たちの中には、頭をかいているものもあった。
「いいことを言って下さいました。」
 と、朝倉先生はかるくうなずくようにしたが、そのまま眼をおとして、しみじみとした調子で言った。
「おたがいに真実を生かしあう、それほど真実なことはない。そうした真実の持主が何人か居りさえすれは、日本もきっと救われる時があるんだ。おたがいに、きょうの本田さんの真実を忘れないようにしたいものだね。」
 しばらく沈默がつづいた。月の光が、窓の近くの生徒たちの坊主頭をうしろからぼんやりてらしている。
「では、これから会員の自由な感想発表にしたいと思いますが、そのまえに、きょう新入会員が一人出来ましたから紹介します。」
 大沢がそう言って、俊三の方を見た。俊三はちょっと顔をあかくして頭に手をやったが、すぐ立ちあがった。すると大沢が言った。
「本田俊三君、四年生です。上級の人はもうみんな知っているだろうと思うが、次郎君の弟です。これまでは白鳥会を多少軽蔑していたようですが、きょう次郎君や僕といっしょに鶏を解剖しているうちに、入会する気になったんです。小父さんがさっき言われた、鶏肉胃袋に入る会のつもりで入会したのかも知れませんが、将来見込はあるつもりです。」
 どっと笑声がおこった。俊三はただやたらに頭をかいていたか、ひどくてれているようなふうでもなかった。そして笑声がいくらかしずまるのをまって、すこし肩をいからせながら言った。
「僕は、きょう、大沢さんと鶏の解剖をしながらいろんなことで議論しましたが、たいてい負けました。そして大沢さんのような人が白鳥会に感心しているなら、僕も感心してもいいという気になりました。それで入会することにしたのです。鶏をたべたかったからではありません。どうぞよろしく。」
 また、笑声がどっと起った。その笑声の中で俊三は一たん坐りかけたが、また立ちあがって俊亮の方を見た。そしてずるそうに微笑しながら、
「小父さんも、どうぞよろしく。」
 みんなはころげるようにして腹をかかえた。朝倉先生夫婦も俊亮の顔を横からのぞきながら、声を立てて笑っている。俊亮もつい吹き出したが、
「おまえや次郎には、やはり父さんと呼んでもらいたいな。それが人間の真実というものだよ。」
 笑声は、それでまた一しきり高くなった。しかし、それはそう永くはつづかなかった。真実という言葉は、それがどんな場合につかわれようと、もうみんなの心には、何か犯しがたい力をもって響くようになっていたのである。
「では、いよいよ会員の自由発言にします。誰からでも遠慮なくやってくれたまえ。せんべをかじりながら始めよう。」
 大沢が、そう言って、自分のまえの菓子袋をやぶった。すると方々でも菓子袋のやぶれる音がきこえ、土瓶と茶碗とが移動し出した。
 そのざわめきの中で、最初に発音したのは梅本だった。彼はかなり委しく今度の事件の経過を説明し、その間に次郎と新賀とが演じた役割を物語って、みんなを傾聴さした。
 梅本につづいて新賀が発言したが、彼は主として朝倉先生を失ったあとの学校の将来を論じて会員の自覚と奮起とを促《うなが》し、最後に、先年の代りに俊亮を迎えることが出来たことについて、心からの喜びを述べた。
 そのあと、つぎつぎにいろんな生徒が発言したが、たいていは朝倉先生や白鳥会からうけた彼ら自身の過去の感銘や、将来に対する覚悟についてであった。過去の感銘の中には、具体的で印象の深いものもあったが、将来の覚悟ということになると、いずれもぼんやりした抽象的な言葉が多かった。下級の生徒たちは、あまり発言しなかった。発言してもたいていは、
「これから、小父さんや上級生の教えに従ってしっかりやります。」
 という程度以上に出なかった。ただひとり、二年の生徒でこんなことを言ったものがあった。
「僕は、きょう、良心の自由という言葉と人間の真実という言葉とを覚えました。僕は、これから、どんな時にも、この二つの言葉と、僕たちのために死んでくれた鶏のことを思い出したいと思います。」
 朝倉先生や俊亮をはじめ、上級の生徒たちは、いいあわしたように、その生徒の顔を見つめた。
「あの生徒はM少将の息子です。ご存じでしょう、M少将のことは。」
 朝倉先生が、そっと俊亮の耳にささやいた。俊亮はうなずいて、一層注意ぶかくその生徒の顔を見つめた。
 M少将というのは、満州事変が起る頃まで、陸軍省内に重要な地位を占めていたが、事変について省内で何か烈しく論争したため、急に予備役に編入されたという噂のある人だったのである。
 M少将の息子の発言が終ると、それまで沈默をつづけていた次郎が、急に口をきった。
「僕はいま、M君の言葉をきいたとたん、なぜか、僕がこの会に入会して間もないころの、ある夕方のことが、はっきり眼にうかんできたので、それを話すことにします。」
 そう前置きして、彼は、文庫の両側にかかっている「白鳥入芦花」の額と、良寛の歌――「いかにしてまことのみちにかなわなむちとせのなかのひとひなりとも」――の掛軸とに眼をやりながら、いつもにないしんみりした調子で話し出した。それは、彼がまだ一年生のころ、朝倉夫人と二人きりで、その額と軸とを前にして、いろいろと問答をした日のことだった。
 彼の話は、かなり写実的だった。その時の周囲の光景、たとえは窓の日ざしがどんな工合だったとか、卓の上にはどんな花瓶がのっており、それにどんな花が活《い》けてあったとかいったようなことから、夫人がその時着ていた着物の色のことまで、記憶をたどって話した。そして、その時ふたりの間にとりかわされた対話も、出来るだけ直接話法を用いようと努力した。ことに夫人が、最後に、「芦の花って真白でしょう、その真白な花が一面に咲いている中に、真白な鳥がまいこんだというのですわ。」と言って微笑し、「もうこれでおしまい、ほほほ。」と謎のような笑い声をのこして階下におりて行ったところなどは、まったくその時の夫人の言葉そのままだった。
「僕が、その時のことを、どうしてこんなにはっきり思い出すことが出来るのか、僕自身にもふしぎなくらいですが――」
 と、次郎は朝倉夫人の方に眼をやりながらつけ加えた。
「それには理由があると思います。今から考えると、僕がほんとうに迷い、ほんとうに物ごとを深く考えるようになったのは、その時からのことです。それに、僕は、これも今から考えてのことですが、その時はじめて、ほんとうに知性のゆたかな聡明《そうめい》な婦人の愛情というものを味わうことが出来たと思います。僕はこのことがあって以来、奥さんのどんなお言葉からも、また、僕を見られるどんなお眼の光からも、何かの教えと愛情とを汲《く》みとることが出来るようになりました。その意味で、僕は奥さんをぬきにしては白鳥会を考えることが出来ません。白鳥会から奥さんを失うことは、僕にとっては、先生を失うことと同じように大きな打撃であります。諸君の中にも、いや、恐らく諸君のすべては、僕と同様の感じを抱いていることと信じます。朝倉先生に対する感謝の言葉は、さっきからの諸君の発表でもうつくされていると思うので、僕は、僕らにとって聖母マリアであり、観音菩薩《かんのんぼさつ》であり、こして真に白鳥そのままの役目をつとめていただいた奥さんに感謝する意味で、僕のこの思い出を発表した次第であります。」
 これまでにない力のこもった拍手がおこった。先生夫妻はうなだれており、夫人の眼には涙さえ光っていた。
 かなり間をおいて、夫人はうなだれたまま、低い、しかし、はっきりした声で言った。
「ただ今の次郎さんのお言葉をうけたまわりまして、私、まったく恥ずかしくなってしまいました。あの時のことは、私もぼんやりおぼえていますが、あれは、おてんばの私がつい出しゃばったことを申したに過ぎないのございます。……ただ私は、みなさんとおちかづきになるのが何よりの楽しみでございました。ごぞんじの通り、私には子供がございませんものですから、みなさんのようなお若い方を見ると、ただもうお親しくしていただきたくて、仕方がございません。それで、つい時々おてんばなまねをしてみたくなるのでございます。みなさんに何かお教えするの何のって、私、考えてみたこともございません。どうか、これまでのことを、そう深く大げさにおとりにならないようにお願いいたします。私といたしましては、みなさんに、これまで叔母か姉みたように親しんでいただいたことが、ただもう嬉しくてならなかったのでございまして、私からこそ、みなさんにお礼を申上げなければならないのでございます。……あすは、もうご当地におわかれするので
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