すが、それはまあそうだとしても、しかし、ご用心なすった方がいいでしょう。何といっても大事なのは、根柢になる思想ですからね。それが間ちがっていたのでは、――」
「ありがとう存じます。しかし、思想の点では今のところ大丈夫だと信じています。」
「さあ、それが――」
「いや、それだけはご安心が願えるかと思います。私がこれまで見て来ましたところでは、次郎はあくまでも国家の道義のために仂きたい、不正な権力に対しては身を捨てても戦いたい、と、そういった考えでいるようですから。」
曾根少佐の長いひげがびりびりとふるえた。俊亮は平然として、
「とくに最近は、そういう考えが固い信念のようになって来たようです。それは多分朝倉先生のご感化だと思いますが、しかし、今度の事件で、実際問題にぶっつかって鍛《きた》えられたということが非常によかったと思います。その点で、私は、朝倉先生だけでなく、そういう機会を次郎にお与え下すった皆さんに、深くお礼を申さなければならないと思っています。」
俊亮の調子には、微塵《みじん》も皮肉らしいところがなかった。悠然というか、淡々というか、まるで表情のない顔付をして、ごくあたりまえの調子でそう言ったのである。
校長も、西山教頭も、曾根少佐も、ただ渋い顔を見合わせているよりほかなかった。
そこへ、廊下の方の扉に軽くノックする音がきこえ、やがて黒田先生がはいって来た。
先生は、曾根少佐がその席にいるのを見て、ちょっとけげんそうな顔をしたが、すぐ校長に向かって、
「本人にはただ今申しつたえましたが、わけなく納得してくれました。納得したというよりは、自分からその気でいたようです。それから、――」
と、俊亮の方を見て、
「本人には、転校の希望もあるようですが、もしお父さんの方でもそのおつもりでしたら、さっきお書き下さった退学願いは、当分私の方でお預りいたしておきましょう。」
「そう願えれば何よりです。」
すると西山教頭が言った。
「もし転校の手続をなさるのでしたら、出来るだけ早くお願いします。学籍薄の整理上、いつまでも中途半ぱには出来ませんから。」
「承知しました。もし永びいて御都合がわるいようでしたら、黒田先生にお預けしてある退学願をいつでもお役立て下さい。」
俊亮はめずらしく烈しい調子で言って立ち上り、
「では、私、これで引取らしてもらいます。いろいろ勝手なことを申しましてすみませんでした。」
黒田先生は気まずそうに眼をおとしていたが、
「本人はまだあちらに待たしてあります。今日はごいっしょにおつれ帰り下さる方がいいかと思いまして。」
「そうですか。それはどうも。」
俊亮は何か可笑しそうに微笑した。
ちょうどその時間の終りの鐘が鳴った。俊亮は黒田先生のあとについて、さわがしくなった廊下を通り、次郎の待っている室にはいったが、次郎はその時、窓の近くに立って外を見ていた。
「じゃあ、次郎、帰ろう。」
俊亮はそれだけ言ったきり、一ことも口をきかなかった。次郎も父の顔を見て、ただうなずいたきりだった。
間もなく二人は黒田先生に見おくられて玄関を出た。次郎は、方々からたくさんの眼が自分を見ているのを感じて、さすがにいい気持はしなかった。
校門を出ると、すぐ俊亮がたずねた。
「どうだった。最後の瞬間に動揺はしなかったかね。」
「そんなことありません。僕、黒田先生にかえって気の毒だったんです。」
「どうして。」
次郎は黒田先生との対話のあらましを話して、
「僕、先生にあんなふうに言われると、どうしていいかわからなくなるんです。」
「ああいう先生には、ミケラシゼロの鑿《のみ》の必要もないというわけだね。ははは。しかし、あの先生は実際いい先生だ。おまえも気持よく学校にお別れが出来て、仕合わせだったよ。」
「父さんは校長にも会ったんですか。」
「うむ、会った。西山教頭や曾根少佐にもあったよ。」
俊亮はべつに校長室の様子をくわしく話しはしなかった。彼はただ笑いながら、
「父さんには、ミケランゼロの鑿なんて、とても使えんよ。下手すると、女神どころが悪魔が出て来そうだからね。むずかしいもんだ。まあ、しかし、父さんの鑿も、まるで役に立たなかったわけではあるまい。あてた鑿のあとだけは、どこかに残っているだろうからね。」
二人ははればれとした気持になって、校門を遠ざかった。次郎はうしろをふりかえって見ようともしなかった。そしていつの間にか町をぬけ土手にさしかかっていた。しかし、一心橋のたもとまで来ると、次郎は急に馬田との一件を思いおこして、不愉快になった。自分が退学したあとの学校の行きかえりのことまでが気になって来たのである。
「父さん、水をあびて帰りましょうか。」
「うむ、よかろう。」
二人は馬の水飼場に来ると、着物をぬいで川に飛びこんだ。
「次郎といっしょに水泳をやるのは、これで三度目だね。」
「ええ。」
次郎はすべての過去を払いのけるように、水の中をあばれまわった。俊亮は、首から下をしずかに水にひたして、それを見まもっていた。
水を出ると、俊亮が言った。
「きょうはもう一度、鶏をつぶそう。誰か呼びたい友達はないかね。」
「新賀と梅本です。今日は、默っていても、きっと学校のかえりに来ると思います。」
次郎はしんからうれしそうに答えた。
「大巻のうちにも、みんなで来て下さるように、そう言っとくといい。徹太郎叔父さんと道江さんには是非ってね。二人とも、おまえのことは誰よりも気にかけていたようだから。」
俊亮はそう言って歩き出したが、あとについて行く次郎の心には何かまた暗いかげがさしていた。道江の名は、もうどんな場合にも、彼の耳に、軽い風のような快いひびきをもつものではなかったのである。
*
次郎の生活記録の第四部をここで終る。考えてみると、この記録は、次郎の生活の中の、わずかに二十日にも足りない期間の記録でしかなかった。その点からいって、それに費《ついや》された紙数は、これまでの記録にくらべて、あまりにも多過ぎたように思える。しかし、この短い期間が次郎の一生にとつて持つ意義は、それだけの紙数に値しないほど小さなものであったとは決して思えない。それは、次郎が時代というものに身をもって接触しはじめ、従って大きな社会に実践《じっせん》の足をふみ入れたという点で。また、はじめて恋というものを意識し、その苦悩を味わいはじめたという点で。そしてまた、それらの諸事情によってかもし出された「運命」と「愛」との新しい葛藤《かっとう》によって、「永遠」への彼の道が、これまでとはかなりちがった様相《ようそう》を呈しはじめたという点で。
過去数年の間彼の心を支配し、いくらかずつその内容を深めて来た「無計画の計画」とか「摂理」とかいう考えが、これからも素直に彼の心の中で成長して行くか、どうか。それは彼を愛する人たちにとって、最も大きな関心事でなければならない。私はそうした点について、注意深く彼を見守り、つづいて彼の生活をつぶさに記録して行くであろう。
[#改段]
附記
「次郎物語」の完成は、いかにそれが貧しい内容のものであろうと、私にとっては、生涯のうちの最も大きな仕事の一つである。そして私は、出来うれば、敗戦後の日本の運命と次郎の運命とがどう結びつくかを書き終るまでは、この物語に別れを告げたくない、と思っている。しかし、それまでには、なお数巻の記述を必要とするであろう。悲しいことには、私は世間の物笑いになるほどの遅筆である。しかも、今年の十月には私は私の六十六歳の誕辰を迎えようとしている。たとい健康にある程度の自信があるとしても、私は急がなければならないという気がしてならない。まして、第三次世界大戦の危機がわれわれの頭上をおびやかしていることを思うと、一切をなげうって、この仕事に没頭すべきではないか、とさえ思うのである。これは誇張でも何でもない。第四部を書き終えた時の私の実感なのである。
しかし、今はただ出来るだけ少い煩累の中で出来るだけ多くの記述をすすめうることを神に祈りつつ、最善の努力を試みるより外はない。なぜなら、私もまた次郎と共に運命と愛との葛藤の中に生きる人間の一人なのだから。
[#地から2字上げ]一九四九・三・一九
底本:「下村湖人全集 第二巻」池田書店
1965(昭和40)年7月30日発行
※「黒+犬」は、「默」で入力しました。
※誤植が疑われる箇所を、「次郎物語 (中)」新潮文庫、新潮社、1987(昭和62)年5月30日発行、1994(平成6)年6月10日4刷を参照してあらためました。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2006年1月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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