んなにも探いかゝわりをもっていた肉親のひとりが、今はまったく別の世界に住んでいる。人間というものは、年月がたつにつれ、こうして次第にわかれわかれになって行くものだろうか、などと考えて、変な気持になって行った。
しかしノートをひらいて血書の文句を書き出した時には、彼はもう一途な力強い感情におされて、徹太郎のことも、道江のことも、俊三のことも忘れていた。そして、書き終った文句を何度も何度もよみかえしたあと、足音をしのばせるようにして階下におりていったが、やがてもどって来た彼の手には、父の西洋かみそりと一枚の小皿とがにぎられていた。彼はその二つの品を机の上に置いて、しばらくそれに見入った。家が没落して売立がはじまった時、そのなかにまじっていた刀剣のことが、ふと彼の記憶によみがえって来た。すると、眼のまえの西洋かみそりが何かそぐわない、うすっぺらなもののように感じられてならなかった。しかし、そんな感じはほんの一瞬だった。彼はすぐかみそりの刃をひらいた。そして、いつ、誰に、どこできいたのか、また、それが果して定法なのかどうかはっきりしなかったが、血判や血書には、左手のくすり指の指先をすじ目に切るものだということが頭にあったので、その通りに指先をかみそりの刃にあて、おなじ左手のおや指で強く、それをおさえながら、思いきりすばやく、一寸ほど横にすべらせた。
つめたいとも、あついともいえぬような鋭い痛みが、一瞬指先に感じられた。しかし、そのあとは何ともなかった。血も出ていない、次郎はしくじったと思った。しかし、そう思っておや指のささえをゆるめたとたん、赤黒い血が三日月形ににじみ出し、それが見る見るふくらんで、熟した葡萄のようなしずくをつくった。
次郎はいそいでそれを小皿にうけた。つぎつぎにしたたる血が、たちまちに、小皿の中央に描いてあった藍絵の胡蝶の胴をひたし、翅《はね》をひたし、触角《しょくかく》をひたしていった。次郎は、表面張力によってやや盛りあがり気味に、真白な磁器の膚《はだ》をひたして行く自分の血を、何か美しいもののように見入った。そしてそれからおよそ三十分の後には、彼は一枚の半紙に毛筆で苦心の文句を書きあげていたが、その三十分間ほど彼にとって異様に感じられた時間はこれまでになかった。それはちょうど氷のはりつめた湖の底に炎がうずまいているような、静寂と興奮との時間であった。
もっとも、字があまり上手でないうえに、使いなれない毛筆を血糊にひたしての仕事だったので、濃淡が思うようにいかず、あるところはべっとりと赤黒くにじんでいるかと思うと、あるところはほとんど血とは思えないほどの黄色っぽい淡い色になっていて、全体としてはいかにも乱雑に見えた。しかし、一ヵ所も消したり書き加えたりしたところがなく、また、一字一字を見ると、下手ながらも極めて正確で、誰にも読みあやまられる心配はなかった。文句にはこうあった。
知事閣下並に校長先生
私たち八百の生徒は、昨今名状しがたい不安に襲われています。それは、私たちの敬愛の的である朝倉道三郎先生が突如として我校を去られようとしていることを耳にしたからであります。
私たちにとって、朝倉先生を我校から失うことは、私たちの学徒としての生命の芽を摘《つ》みきられるにも等しい重大事であります。私たちは、これまで、朝倉先生を仰ぐことによって私たちの良心のよりどころを見出し、朝倉先生に励まされることによって愛と正義の実践に勇敢であり、そして朝倉先生と共にあることによって真に心の平和を味わうことが出来ました。朝倉先生こそは、実に我校八百の生徒にとって、かけがえのない心の燈火であり、生命の泉であったのであります。
私たちは、朝倉先生が我校を去られる真の理由が何であるかは全く知りません。しかし、それが先生自ら私たちを教えるに足らずと考えられた結果でないことは、これまでの先生の私たちを導かれた御態度に照らしても明らかであります。また、私たちは、先生が、いかなる事情の下においても、教育家として社会から指弾《しだん》されるような言動に出られようとは、断じて信じることが出来ません。従って、私たちは、先生が我校を去らなければならない絶対の理由を発見するに苦しむものであります。
知事閣下、並に校長先生、願わくは八百学徒の伸びゆく生命のために、また、我校の平和のために、そして、国家社会に真に正しい道義を確立するために、朝倉先生が永く我校に止まられるよう、あらゆる援助を賜わらんことを。
右血書を以て謹んでお願いいたします。
昭和七年六月二十七日
次郎は、年月日を書いたあと、すぐその下に自分の姓名を書こうとしたが、それは思いとまった。もし多数の生徒たちが墨書で署名するようだったら、自分も人並に墨書する方がいいと思ったからである。
指先の出血はまだ十分とまっていず、くるんだ紙が真赤にぬれていた。彼はもう一枚新しい紙をそのうえに巻きつけながら、窓ぎわによって、ふかぶかと夜の空気を吸った。空には無数の星が宝石のように微風にゆられていた。彼はそれを眺めているうちに、自分が血書をしたためたことが、何か遠い世界につながる神秘的な意義があるような気がし出し、昼間馬田にそれを野蛮だと非難された時、どうして反駁《はんばく》が出来なかったのだろう、と不思議に思った。
興奮からさめるにつれて、心地よいつかれが彼の全身を襲って来た。彼は窓によりかかったまま、ついうとうととなっていた。すると、
「次郎、蚊がつきはしないか。」
と、いつの間に上って来たのか、俊亮がすぐまえにつっ立ってじっと彼の顔を見おろしていた。
次郎は、はっとして机の上に眼をやったが、もう自分のやったことをかくすわけにはいかなかった。俊亮は立ったまま、ちょっと微笑した。が、すぐ血書の方に視線を転じながら、
「生臭いね。」
と、顔をしかめた。そしてしばらく机の上を見まわしたあと、
「用がすんだら、かみそりや皿はさっさと始末したらどうだい。」
次郎は父の気持をはかりかねたが、言われるままに、かみそりと皿とをもって下におりた。そして、ながしで音を立てないように皿を洗い、それをもとのところに置くと、変にりきんだ気持になって二階に帰って来た。
俊亮はもうその時には坐りこんで血書に眼をさらしていた。次郎もそばに行儀よく坐って、何とか言われるのを待っていた。しかし、俊亮はいつまでたってもふりむきもしない。とうとう次郎の方からたずねた。
「こんなこと、いけないんでしょうか。」
俊亮はやっと血書から眼をはなして、
「いいかわるいか自分では考えてみなかったのか。」
「考えてみたんです。考えてみて、いいと思ったからやったんです。」
「自分でいいと思ったら、いいだろう。」
次郎はひょうしぬけがした。
しかし、彼は、つぎの瞬間には、自分を見つめている父の眼に、何か安心の出来ないものを感じて、かえって固くなっていた。
「しかし――」
と、俊亮はまた血書の方に眼をやって、
「朝倉先生にはきっと叱られるね。」
「ええ、でも、それは仕方がありません。」
俊亮はだまってうなずいた。そしてしばらく何か考えていたが、
「ところで、これがうまく成功すると思っているかね。」
「成功させます。」
次郎はきおい立って答えた。俊亮は微笑しながら、
「しかし相手は役人だよ。日本の役人は中学生なんか相手にしてくれないんだぜ。」
次郎は、学校の卒業式に訓辞をよみにやって来る役人以外の役人をほとんど知らなかったが、その役人たちは、考えてみると、自分たちとはあまりにもかけはなれた存在のようだった。彼は今さらのようにそれを思って、何か心細い気がした。
「それに――」
と、俊亮は少し声をおとして、
「大巻の叔父さんの話では、朝倉先生の辞職の原因は五・一五事件の軍人を非難したからだっていうじゃないか。」
「ええ、しかし朝倉先生の言われたことは正しいんでしょう。」
「そりゃ正しいとも。たしかに正しいよ。」
「正しくってもいけないんですか。」
「正しいことで役人が動く世の中なら問題はないさ。しかし、床の上を歩かないでいつも天井にぶらさがっているような今どきの役人では、そうはいかないよ。」
次郎には、床だの天井だのという言葉の意味がよくのみこめなくて、きょとんとしていた。
「つまり日本の役人は、権力という天井にぶらさがって、床の上をあるく国民の迷惑なんかおかまいなしに、足をぶらぶらさしているようなもんだよ。」
次郎は思わず吹き出した。
「ところで、その権力というのが、昔はだいたい上役にあったものだが、次第に政党にうつり、今では軍人にうつろうとしている。ほかのことならとにかく、自分たちのぶらさがる天井のことだから、役人たちはよくそれを知っているんだ。今ごろは多分、古い天井の棧《さん》に一方の手をかけたまま、もう一方の手で新しい天井の棧に飛びついていることだろう。苦しい芸当さ。はたから見ていると、みじめでもあり、気の毒でもある。しかし、それを苦しいともみじめだとも思わないで、かえって得意になっでいるのが今の役人だよ。そんな役人を相手に、一中学生が血書なんか書いてみたって、何の役にも立つものではない。ことに、それが新しい権力に楯《たて》つくようなことを言った先生の弁護とあってはね。」
次郎は、かつて小役人をしたことのある父の役人観を面白半分にきいていたが、おしまいに自分の血書があまりにも過小に評価されたような気がして不満だった。いやしくも一人の人間が血を流してつづった願いだ。それがまるで無視されるという道理はない。実は相手が役人ではだめだというが、たといつまらん役人でも、いやつまらん役人であれはあるほど、血書をつきつけられてそれを默殺するだけの勇気はあるまい。彼にはそんなふうにも思えるのだった。それは、満州事変このかた、軍部に対する血書の歎願といったようなものが青年の間に流行し、それが新聞に発表されるごとに、たいてい役人がきまって感激的な感想をもらしていたのを、よく知っていたからであったのかも知れない。
俊亮は、彼の気持にはとんちゃくなしに、
「しかし、せっかく書いたものをほごにするにも及ぶまい。まあ出すだけは出してみるさ。すこしなまぐさいだけで、べつにわるいことではないからな。まあ、しかし、これという返事は得られないものだと思った方がいいね。」
「まるで返事もしないって、そんなことがありますか。」
「そりゃあ、あるとも。多分学校といっしょになって秘密に葬《ほうむ》ろうとするだろうね。」
「秘密になんか出来っこありません。生徒の中に署名するものが何人もあるんですから。」
「役人の秘密というのは、誰でも知っていることを知らん顔することなんだよ。ははは。」
俊亮は声をたてて笑った。次郎は、にこりともしないで、父の顔を見つめた。
「そこでと、――」
と、俊亮はすぐ真顔になって、
「いよいよ相手にされなかった場合、どうする? 引っこみがつかなくなって、困りはしないかね。」
「そうなれば、困ります。」
「困るだろう。ことにおまえが一人でやる仕事でないとすると。」
次郎は、ぴしりと胸をたたかれたような気がした。
「多数の力を借りて事を起そうとする場合には、だから、よほど慎重でないといけないんだ。さっきおまえは十分考えたうえで決心したようなことを言っていたが、そうでもなかったようだね。」
「僕は、血書をそんな弱いものだとは思っていなかったんです。」
「ふむ――」
と、俊亮はちょっと考えたが、
「血書を出せば朝倉先生の留任はきっと出来る、と思っていたんだね。」
「ええ。たいてい出来ると思っていました。」
「今では、どうだい。」
「今でも、その希望はすてません。僕は成功すると思っているんです。」
「ふむ。」
俊亮はまた考えた。それから、何か思いきったように、
「もし私が、おまえの血書に不純なものがあると言ったら怒るだろうね。」
次郎にとっては、全く意外な質問だった。彼はあきれたように父の顔を見ながら、
前へ
次へ
全37ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング