となんか、頭をつかわなくたって、すぐ出来ることじゃないか。」
馬田は下品ではあるが、頭はそう悪い方ではない。自分の理窟に曲りなりにも一通りの筋道を立てるぐらいなことは、十分出来る生徒なのである。
次郎は、自分が一番心配していたストライキの煽動者《せんどうしゃ》を、相談のしょっぱなから、しかも馬田のような生徒に見出して、いらいらし出した。最初のうち、彼は、自分の考えもまだ十分まとまっていないし、今日はなるべくほかの生徒たちの意見をきこうと思っていたのだが、もうだまってはおれなくなって来た。それには、平尾と大山とが一言も言わないで坐っているのも、いくらか原因していたのである。
彼は、先ず平尾と大山の顔を見くらべながら、朝倉先生の人格に対する彼の信仰にも似た尊敬の念を披瀝《ひれき》し、先生なきあとの学校を論じて、留任運動の絶対に必要なる所以《ゆえん》を力説した。それから、強いて自分をおちつかせるように、声の調子をおとし、馬田の方を向いて言った。
「しかし、留任運動は純粋な留任運動でなければならないと僕は思うんだ。それがほかの不純な目的のためにとって代られることは、最初から運動をやらないよりなおわるいことだよ。馬田君は最初からストライキを予定して、しかもそれを校長排斥にもって行こうとしているが、不純にもほどがあると思うね。僕は、そんな考え方には絶対不賛成だ。むしろ僕たちは、ストライキのおそれがあったら、極力それをくいとめることに努力しなければならないんだ。それが留任運動をおこすものの義務だよ。それに――」
と、次郎の調子は次鶉に熱をおびて来たが、急に胸がつまったように声をふるわせて、
「万一、ストライキにでもなってみたまえ。僕たちは、表面朝倉先生を慕っているように見えて、実は先生を侮辱していることになるんだよ。ストライキのような卑怯な手段で先生に留任してもらうなんて、そんな……そんなひどい侮辱を先生に与えていいと思うのか。それも、先生の辞職の理由が僕たちにわかっていなければ、まだいい。わかっていてストライキをやるなんて、あんまりひどすぎるじゃないか。」
「じゃあ、君はいったいどうしようというんだ。理くつばかり言っていないで、具体的に方法を言いたまえ。」
馬田がきめつけるように言った。次郎は、しばらく返事をしないで、馬田の顔をじっと見つめていたが、思いきったように、
「血だよ。血をもって願うんだよ。」
「血だって?」
「うむ、血だ。五・一五事件の軍人たちは、相手の血で自分たちの目的をとげようとした。しかし、僕たちは、僕たち自身の血でそれを貫くんだ。」
馬田ばかりでなく、みんなが眼を見はった。次郎は、しかし、わりあい冷静に、
「僕はいろいろ考えてみたんだが、日本では昔から、何か真剣な願いごとがあると、よく血書とか血判とかいうことをやって来たね。君らはどう思うか知らんが、僕は今の場合、僕たちの真心をあらわすには、あれよりほかにないと思うんだ。」
みんな顔を見あわせてだまっている。馬田だけがひやかすように言った。
「奇抜《きばつ》だね。しかし、すこぶる野蛮だよ。」
「むろん形式は文明的ではない。僕にもそれはわかっている。しかしストライキほど野蛮ではないんだ。」
次郎も少し皮肉な調子だった。
「すると程度問題ということになるね。さっき君は、ストライキは朝倉先生を侮辱すると言って心配していたが、血書や血判は侮辱しないのかい。」
次郎はちょっと考えた。が、すぐ決然とした態度で、
「形は野蛮でも、それは朝倉先生に対する僕たちの真情をあらわす方法として、ちっともその限度をこえていないんだ。秩序をみだして相手を脅迫するストライキとは、根本的に性質がちがっているよ。だから、朝倉先生を侮辱することにはならないさ。僕はそう信ずる。」
「しかし――」
と、この時、平尾が近眼鏡の奥の眼をしばたたくようにしながら、めずらしく口をきった。
「本田は、いったい、どんな方法で血書や血判をあつめるつもりなんだい。まさかそんなことを全校生徒に強制するわけにもいくまいし。」
「そりゃ無論さ。こんなことはみんなの自由意意でなくちゃあ、意味をなさんよ。だから、僕は、強いて全校生徒からそれを集めようとは思っていない。出来れば五年生ぐらいは全部加わってほしいと思うが、それが無理なら、校友会の委員だけでもいい。それが無理だというのなら、有志だけでも仕方ないさ。」
「しかし、こんなことは、めいめいの自由意志にまかしておくと、ほとんど加わる人がないし、ちょっと勧誘すると、強制になってしまうものだよ。君はそんなことについても考えてみたかね。」
「考えてみたさ。僕が一ばん考えたのは、その点だったんだ。」
「では、どうするんだい。」
「僕は、まず僕ひとりでやる。」
「君ひとりで? しかし、それを誰も知らなかったとしたら、どうなる。」
「少くとも、君たちだけは、現にもうそれを知っているんだ!」
次郎は、それが相手に対する強制を意味し、従って彼自身矛盾を犯しているということに気がつかないのではなかった。しかし、彼は、どうにかして留任運動を阻止しようとしている平尾の気持をさっきから見ぬいており、そのつめたい理ぜめの言葉に、馬田に対するとはべつの意味で怒りを感じていたのである。
「ようし。僕も血書に賛成だ。」
新賀がその頑丈なからだをゆすぶって言った。
「僕も賛成。」
梅木がつづいて叫んだ。
「血書は僕ひとりでたくさんだ。君たちはそれに賛成ならそのあとに血判だけ押してくれ。」
次郎がやや興奮した眼を二人の方に向けて言った。すると、今までとぼけたように、そのまんまるな顔の中に眼玉をきょろつかせていた大山が、にこにこ笑いながら、
「僕も血判をおそう。本田、どうしておすのか教えてくれよ。僕は、こんなことははじめてでわからないんだからな。」
次郎と新賀と梅本とが思わす吹き出した。
馬田はその時そっぽを向いており、平尾は出っ歯の口を狸のように結んで眼をつぶっていたが、二人とも笑いもせず口もきかなかった。
二 父と子
相談はとうとうはっきりした結末がつかないままで終ってしまった。平尾は、自分は総務の一人として、他の総務ともよく相談したうえ、あす校友会の委員全部に集まってもらってこの問題を提案したい、それまでは何ごともおたがいの間だけで決定するわけにはいかない、と主張し出したのである。次郎も、新賀も、梅本もそれには正面から反対も出来ず、平尾の肚を見すかしながらも承知するよりほかなかった。馬田はにやにや笑って次郎の顔を横目で見ながら、「それがほんとうだよ。」と言い、大山はその満月のような顔をよごれた手拭でゆるゆるとふきながら、「それもよかろうな」と言った。
それでみんなは間もなく帰って行ったが、そのあと、次郎はすぐ畑に出た。なかば行きがかりからではあったが、血書のことを言い出してしまったのが、かえって彼の心をおちつかせ、自分だけはもう何もかもきまってしまったような気持に彼はなっていたのだった。
畑には、めずらしく俊三が出ていた。次郎を見ると、
「もうみんな帰った? どうきまったんだい?」
「どうもきまらないよ。あす委員が全部集まってからきめるんだ。」
「なあんだ、あいつら、わざわざここまでやって来て、そんなことか。」
二人が話していると、鶏舎の方から、もうとうに帰っていたはずの道江が走って来た。そして息をはずませながら、俊三とおなじことを次郎にたずねた。
「道江さんには関係ないことだよ。」
次郎はそっけなく答えて、草をむしりはじめた。さっき階段をのぼって来て、だしぬけに道江に話しかけた馬田の顔が、この時、ふしぎなほどはっきり彼の眼にうかんで来たのだった。
「ひどいわ。」
次郎は道江のしょげたような視線を感じた。しかし、答えない。すると俊三が、
「あす、校友会の委員が集ってきめるんだってさ。」
「そう?」
と、道江はいくらか安心したように、
「あたし、次郎さんがひとりで主謀者みたいになるんじゃないかと思って、心配していたわ。」
俊三は「ぷっ」と軽蔑するように笑い、横をむいて苦笑した。
道江は、二人がまじめに自分を相手にしてくれそうにないので、さすがに腹を立てたらしく、彼女にしてはめずらしく蓮っ葉に、
「さいなら!」
と言うと、そのまま、おもやの方にも行かず、表に出て行ってしまった。次郎は、あとを追いかけて、彼女と馬田との関係を問いただしてみたいような衝動を感じながら、草をむしっていたが、彼女のすがたが見えなくなると、
「もう誰かにしゃべったんじゃないかね。」
「何をさ?」
俊三はとぼけたような顔をしている。
「留任運動の話さ。」
「留任運動をやるってこと、道江さんにも、もう話したんかい。」
「うむ……」
次郎はまごついた。俊三は、かまわず、
「話したんなら、しゃべったってしようがないよ。さっき鶏舎で母さんに何かこそこそ言っていたが、その話かも知れないね。」
次郎はやけに草を引きぬき、旱天つづきでぼさぼさした畑の土を、あたりの青い菜っ葉にまきちらした。それは、道江や、馬田や、自分自身に対する腹立たしさからばかりではなかった。道江をまるで眼中においてない俊三の態度が、変に彼の気持をいらだたせたのである。
しかし、夕方になって風呂にひたった時には、彼はもう何もかも忘れて、一途に血書のことばかり考えていた。
湯ぶねのふちに頭をもたせて、見るともなく眼のまえの棚を見ていた彼は、ふと、その上に、父の俊亮がいつも使う西洋かみそりがのっているのに眼をとめた。彼は、めずらしいものでも見つけたように、いそいで湯ぶねを出てそれを手にとった。そしてその刃をひらいて、しばらくじっと見入っていたが、やがて指先で用心ぶかくそれをなでると、またそっともとのところに置き、何か安心したようにからだをこすりはじめた。
夕飯をすましてからの彼は、門先をぶらぶら歩きまわったり、二階の自分の机のそばに坐りこんだりして、はた目には何かおちつかないふうに見えたが、頭の中では、血書の文句をねるのに夢中だった。簡潔で、気品があり、しかも強い感情のこもった表現がほしい。しかし、それが詩になってしまってはいけない。世間普通の人にも、すらすらと受けいれられるような文句でなければならないのだ。そう思うと、詩を作るになれた彼の頭は行きつもどりつするのだった。そのために、彼は、お芳が台所のあとかたづけを、めずらしく女中のお金ちゃんだけに任して、いそいで大巻をたずねたのも、そのあと間もなく徹太郎がやって来て、俊亮と座敷の縁で何か話しこんでいたのも、まるで知らないでいたほどだったのである。
彼が、どうやら自分で満足するような文句をまとめあげたのは、もう真暗になった門先をぶらついていた時だった。彼は、それをノートに書きしるすために、いそいで家にはいり、階段をのぼりかけたが、その時はじめて徹太郎の来ているのに気がつき、思わず立ちどまって耳をすました。
「時勢が時勢でないと、こんなことはむしろ美しいことですがね。」
徹太郎の声である。話はもう大よそすんだらしい口ぶりである。
「次郎がどこまで考えてそんなことをやろうとしているのか、とにかく、あとで私からよくききただしてみることにしましょう。」
「ええ、そうなすった方がいいと思います。ほっておいて世間をさわがすようなことになっても、つまりませんからね。……じゃ失礼します。」
次郎はいそいで階段を上りながら、徹太郎叔父も、学校の先生だけあって、やはりこんな場合には事なかれ主義らしい、という気がして、ちょっとさびしかった。道江がお芳か姉の敏子(徹太郎の妻)かにしゃべったのはもうたしかであり、そのあまりなたよりなさには、むかむかと腹も立った。
俊三はもうその時には蚊帳のなかでいびきをかいていた。
次郎には、なぜか、俊三がにくらしくもあわれにも思えた。そして、机によりかかってじっといびきに耳をかたむけるうちに、子供のころの自分の生活に、よかれあしかれ、あ
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