。その眼は、これまで道江が一度も見たことのない、つめたい、しかし烈しい光をたたえた眼だった。
「道江さん――」
と、次郎は、しばらくして口をひらき、
「僕は、こんな話を道江さんにするんではなかったんだ。僕はまだやっぱりだめなんかな。」
「どうして?」
道江の顔も、いくぶん青ざめている。
「かりに道江さんが、きょうの話を誰かにしゃべったとしたらどうなる?」
道江はけげんそうな顔をして、返事をしない。
「かりに僕の父さんにしゃべったとしたら、……いや、僕の父さんならわかってくれるかも知れない。しかしこれが普通の父兄だと、きっと僕のじゃまをするんだ。」
「そうか知ら。」
「そうか知らって、道江さんだって、さっき、朝倉先生の辞職の理由を問題にしていたんじゃないか。そんな理由で辞職する先生の留任運動をじっと見ていてくれる父兄は、今のような時勢にはめったにないよ。それに、どうかするとそれがストライキになる心配もあるんだからね。」
道江はやっとうなずいた。うなずいたのが、次郎の気持に同感したせいなのか、それとも一般父兄のそれに同感したせいなのかは、道江自身にもはっきりしなかった。
「だから――」
と、次郎は、もう一度道江の眼を射るように見つめて、
「僕は道江さんに、きょうの話は絶対に誰にもしゃべらないということを約束してもらいたいんだ。」
道江は眼をふせて、かすかにうなずいた。次郎は、しかし、まだ不安だった。少しの冒険性もない彼女の常識的な聰明さが、きょうほど彼にもどかしく感じられたことはなかったのである。
「いいかね。」
と、彼はつよく念をおした。そしてまるで脅迫するように、
「もし約束を守らなかったら、承知しないよ。」
道江が、次郎の口から、これほどきびしい、温か味のない言葉をきいたことは、これまでにかつてないことだった。彼女は少し涙ぐんだような眼をしていたが、それでも、だまって、もう一度うなずいた。
それっきりふたりが口をきかないでいると、急にそうぞうしい足音がして、俊三が階段を上ってきた。彼も、もう四年生である。今日は、午後武道の時間だったらしく、垢じみた柔道着をいいかげんにまるめて手にぶらさげていたが、道江にはあいさつもしないで、それを自分の机の近くにほうりなげると、すぐ次郎に言った。
「きいた? 朝倉先生のこと?」
「うむ、――きいたよ。」
次郎は、あまり気のりのしないらしい返事をした。
「きいていて、すぐ帰って来ちまったの?」
まるで詰問でもするような調子である。次郎にくらべてやや面長な、いくぶん青味をおびた顔に、才気がほとばしっており、末っ子らしいやんちゃな気分が、その態度や言葉つきにしみでている。
次郎は答えない。
「みんなで君をさがしていたよ。」
俊三は、いつの間にか次郎を君と呼ぶようになっていたのである。
「僕を?」
「そうさ。でも、見つからないので五年の連中が四五人でうちにやって来ると言っていたんだ。」
「そうか。」
「もうじき来るだろう。来たら道江さんはいない方がいいね。」
それは決して俊三の皮肉ではなかった。次郎は、しかし、少し顔をあからめて道江を見た。さっきからのこともあり、二重の意味でうろたえたのである。
道江はすぐ立ちあがったが、しかし、もうその時には、階段の下には生徒たちのさわがしい声がきこえていた。階段は土間からすぐ上るようになっており、次郎や俊三の親しい友達は、時には案内も乞わないで上って来ることがあるのである。
次郎は、道江より先にいそいで階段の上まで行き、彼らをむかえた。そのため道江はどこにも落ちつくところがなくなり、次郎のうしろにかくれるようにして、彼らがあがって来るのをまっていた。
「どうしたい。きょうはばかにいそいで帰ってしまったじゃないか。」
そう言って最初にあがって来たのは、新賀だった。新智は次郎といっしょに彼らの年級では最初に白鳥会に入会した、とくべつ親しい友人で、よくたずねても来ていたので、道江ともいつの間にか顔見知りになっていた。
道江はいくらかほっとしたように、彼に目礼した。
新賀をむかえると、次郎はすぐ彼の先に立って自分の机のそばに坐った。そのため道江は、つづいて上って来る生徒たちを、階段のうえに立ってひとりでむかえるようなかっこうになってしまったのである。彼女は視線を畳におとして立っていた。新賀のほかに四人ほどいたが、彼らがつぎつぎに上って来て、自分のそばを通るのが何となく息ぐるしかった。しかし、何よりも彼女をおどろかしたのは、その最後のひとりが階段をのぼりきらないうちに、
「やあ、道江さんじゃありませんか。」
と、いかにも親しげに声をかけたことであった。
道江はぎくっとしたように顔をあげてその方を見たが、その瞬間、それまでいくらかほてっていた彼女の顔から、さっと血の気があせた。そして、いつもなら平凡なほど温和なその眼が、異様な光をおびて、まともに相手の顔を見つめ、きっと結んだ唇は、石のようなつめたさでふるえていた。驚きと、羞恥と、怒りと、侮蔑《ぶべつ》とをいっしょにしたような表情である。
相手は、階段をのぼりきると、そのまま道江の真正面に立って、変な微笑をもらした。殿様顔といってもいいほど目鼻立ちはととのっているが、口元にしまりがなく、何とはなしに下品に見える。涼しい風に吹かれているかのように、眼をほそめてまたたかせているのが、いかにもわざとらしく、それが口もとの下品さに輪をかけている。
道江は、彼から視線をそらして、すぐ階段をおりようとした。すると、彼はそれをさえぎるように言った。
「道江さんがこんなところに来ているなんて、夢にも思っていませんでしたよ。ここにはしょっちゅう来ますか。」
道江は、しかし、ふり向きもしないで階段をおりて行ってしまった。
「おい、馬田! さっさと坐れ。」
新賀がどなるように言った。馬田と呼ばれた生徒は、まだ階段の上につっ立って、道江のあとを眼で追っていたが、
「うむ。」
と、なま返事をして、べつにはずかしそうな顔もせず、ゆっくりと歩いて来て、一座の中に加わった。そして、次郎の顔を見てにやにや笑いながら、
「親類かい、君んとこの?」
「親類だよ。」
次郎の答えはぶっきらぼうだった。
「そんなこと、どうでもいいじゃないか。」
新賀が、またどなるように馬田をねめつけて言った。
「そうだ、ぐずぐすしていると、手おくれになるかも知れんぞ。朝倉先生はもう辞表を出されたそうだから。」
そう言ったのは、一年のころから、色の黒い美少年だという評判のあった梅本だった。すべてにひきしまった、しかしどこかに温かい感じのする顔が、馬田のだらしない顔といい対照をなしている。彼も白鳥会の一員になっているのである。
あとの二人は何か考えこんだように默りこんで坐っていた。ひとりは平尾、もうひとりは大山といった。平尾は出っ歯で、近眼で、みんなの中で一ばん不景気な顔をしているが、おそろしく記憶力のいい勉強家で、三年の頃からめきめきと成績をあげ、四年以来一度も首席を人にゆずったことがないというので有名になっている。大山は、その反対に三年の頃まではたいてい首席だったが、それから次第に少しずつさがって、今ではやっと優等の尻にぶらさがっている程度の成績である。おっとりしたのんき者で、まんまるな顔がいつも笑っているように見えるせいか、「満月」という綽名《あだな》をつけられており、同級生からばかりでなく、下級生からも非常に親しまれている。馬田とこの二人とは白鳥会には関係がない。
校友会関係でいうと、六人ともそれぞれに何かの委員をやっており、平尾が総務、次郎が文芸、梅本が弁論、新賀が柔道、大山が弓道、馬田が卓球となっている。むろん、このほかにも、剣道、野球、庭球、登山、陸上競技、水泳、図書などの部があり、委員の数も各部二名乃至三名ずつで、校友会の問題ばかりでなく、学校に何か問題があると、それら五十名近くの委員が全部集まって相談することになっているが、今日は新賀と梅本とが中心になり、とりあえず、学校にまだ残っていた委員だけを集めてやって来たわけなのである。学校からかなり遠い次郎の家をわざわざたずねて来たのは、秘密の相談所としてそこが適しているという理由もあったが、主なる理由は、いやしくも朝倉先生の問題に関するかぎり、最初から次郎を除外するわけにはいかない、という新賀の肚《はら》があったからである。
「俊ちゃんは下におりとってくれよ。」
次郎は、俊三がまだ机のそばにねころんで、じろじろ自分たちの方を見ているのに気がついて言った。
「かまわんさ、俊三君なら。かえってきいていてもらった方がいいかも知れんよ。どうせ四年も加わってもらうんだから。」
そう言ったのは馬田だった。ほかの四人はだまっている。次郎は、
「いけないよ。まだほかの委員にも相談しないうちに、四年生がいちゃあ、あとでうるさくなるから。」
しかし、次郎の言葉がまだ終らないうちに俊三はもう階段をおりかけていた。彼は自分の顔がかくれる瞬間、新賀の方を見て、ぺろりと舌を出し、顔をしかめて見せた。新賀は、柔道仲間で、俊三ともかなり親しかったのである。
「どうだい、本田、朝倉先生がやめられるというのに、君は、まさか、默ってはおれまい。」
俊三の足音がきこえなくなると、すぐ新賀が言った。
「むろんさ。留任運動は決定的だと思うんだ。しかし、方法がむずかしいよ。僕、ひとりでそれを考えていたんだが、……」
「ひとりでかい?」
と、馬田が、変に微笑しながら、口をはさんだ。次郎はむっとした顔をして、ちょっと彼の顔を見つめたが、思いかえしたようにすぐ新賀の方をむいて、
「とにかく、正々堂々と恥かしくない方法でやりたいものだね。」
「そうだ、最初校長に願ってみて、いいかげんな返事しか得られなかったら、直接県庁にぶっつかるんだね。」
「校長はどうせ相手にならんよ。まるで配属将校の部下みたようなものじゃないか。」
そう言ったのは、梅本だった、すると馬田が、
「花山校長の鼻をあかすいい機会だよ。いよいよストライキになったとき、あのちょっぴりした青い鼻がどんなかっこうになるか、それを眺めるのも、はなはだ興味があるね。」
と、さかんに「はな」を連発して、ひとりで得意になった。
「ふざけるのはよせ!」
新賀が今度はなぐりつけそうなけんまくでどなった。
「僕たちはストライキをやろうとしてるんではないだろう。」
と、次郎がすぐそのあとで、表面何気ないような、しかしどこかにおさえつけるような調子をこめて言った。
「ストライキをやらないで、いったい何をやるんだ。」
馬田は、さっきからのふざけた様子とはうって変り、まるで喧嘩腰になって次郎の方に向き直った。
「留任運動をやるさ。僕たちは僕たちの真情を訴えれば、それでいいんだ。」
次郎はおちついて答えた。
「それが成功すると思っているのか。」
「成功させるよ。」
「知事がきめたことが、僕たちの運動ぐらいでひっくりかえるもんか。」
「全生徒が誠意をもって願えば、知事だって考えるよ。」
「ふふん。」
馬田は鼻であざ笑った。そして、次郎なんか相手にならないといったようなふうに、ほかの生徒たちの方を見て、
「本田のようなお上品な考えかたには、僕は賛成出来ないよ。そりゃあ、一応形式的に校長や県庁に願い出るのはいいさ。しかし、どうせ成功はしないよ。成功しなかったら、それで默ってひっこむかね。」
誰も返事をしない。留任運動をやろうという以上、誰もがそこまでは考えたことであり、馬田のような問題には、みんなが一度はぶっつかっていたことなのである。
馬田は勝ちほこったように、
「結局はストライキだよ。ストライキまで行けば、知事も或は考えなおすかも知れん。かりにそれがだめだとしても、校長や、いやな教員を追い出すぐらいなことは、きっと出来るよ。だからはじめからストライキの覚悟をきめて、その計画をやる方が実際的だと僕は思うね。代表を出して、おとなしくお願いするこ
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