次郎物語
第四部
下村湖人

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)脅迫《きょうはく》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)十分|慎重《しんちょう》に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)何本かのところてん[#「ところてん」に傍点]が、
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    一 血書

「次郎さん、いらっしゃる?」
 階段のすぐ下から、道江の声がした。
 次郎はちょっとその方をふりむいたが、すぐまた机に頬杖をついて、じっと何か考えこんでいる。いつもなら学校からかえるとすぐ、鶏舎か畑に出て、夕飯時まではせっせと手伝いをする習慣であり、それがまた彼のこのごろの一つの楽しみにもなっているのであるが、今日はどうしたわけか、誰にも帰ったというあいさつもしないで、二階にあがったきり、机によりかかっているのである。
 次郎はもう中学の五年である。
 階段からは、やがて足音がきこえて来た。次郎は机の一点に眼をすえたまま動かない。しかし、べつに足音をじゃまにしているようにも見えない。六月末の風が、あけはなした窓をしずかに吹きとおしている。
「あら、いらっしゃるくせに、返事もなさらないのね。」
 道江はややはしゃぎかげんにそう言って、机のまえに坐った。白いセーラーの校服がすこし汗ばんでいる。右乳からすこしさがったところに、校章のバッジをつけた紅いリボンがさがっており、そのすぐ下に年級を示す4の字が小さく金色に光っていたが、次郎はそれに眼をうつしたきり、やはり默っている。
「どうかなすったの?」
「返事をしないのに、かってにあがって来るやつがあるか。」
 次郎はおこったように言った。が、すぐ、道江の眼を見ながら、
「何か用?」
「ええ、こないだ貸していただいた詩集に、意味のわからないのがたくさんあったの。」
 道江はそう言って、手提から一冊の小型な美しい本をとり出した。
 次郎は、しかし、もうその時にはそとを見ていた。そして、しばらく遠くに眼をすえていたが、
「僕、きょうはそれどころではないんだよ。」
 と、急に熱のこもった調子になり、
「大変なんだから、僕たちの学校が。」
「大変って? ……何かあったの?」
 と、道江も本を握ったまま、眼を光らした。
「朝倉先生が学校をやめられるんだよ。」
「朝倉先生? あのいつもおっしゃる白鳥会の先生でしょう。」
「そうだよ。」
「どうしておやめになるの?」
「それが僕たちにはわけがわからないんだ。」
 次郎は、きょう学校で、生徒たちの間に噂されていたことのあらましを話した。それによると、つい一週間ほどまえ、朝倉先生は校長といっしょに県庁に呼び出され、知事から直接の取調べをうけたが、すぐその場で辞職を勧告された。理由は、先生がどこかの講演会にのぞみ、講演のあとで少数の人たちの座談会をやったが、その席上で、最近の大事件として世間をさわがした五・一五事件――犬養首相の暗殺事件が話題にのぼり、それについて先生が率直に自分の所信をのべたのが一部の軍人を刺戟し、憲兵隊までが問題にし出したことにあるらしいというのである。なお校長がいっしょに県庁に呼び出されたことについても、いろいろと噂がとんでいたが、現在の花山校長は、人望のあった大垣校長がこの学年の変り目に新設のある高等学校長に栄転したあとをうけて赴任して来た人で、容貌も、性質も、大垣校長とは比較にならないほど弱いところがあり、おまけに女のように疑い深くて、朝倉先生に対する生徒間の人望をいつも気にしていたので、何かその間に小細工があったにちがいないというのが、ほとんど全部の生徒の抱いている感想である。次郎自身も、むろんそれを確信しているらしく、道江に話す口ぶりの中に、よくそれがあらわれていた。
「でも、朝倉先生は、まだ学校に出ていらっしゃるでしょう。」
「昨日までは出ていられたが、今日は見えなかったようだ。」
「昨日まで出ていらしったのなら、ほんとうかどうか、まだわからないわね。」
「しかし、県庁の学務課に出ている人の子供がそう言っているんだから、みんなほんとうだと思っているんだ。」
「先生にじきじきお尋ねしてみたら、どうかしら。」
「そんなことしたって、先生はほんとのことを言やせんよ。つまらん先生なら、すぐ言うんだが。」
 道江は、女学校の先生たちの中に、たずねもされないのに学校における自分の立場などを話し、それとなく生徒の同情を買おうとするような先生が何人もいるのを思い出して、ちょっと苦笑した。そしてしばらく何か考えていたが、
「女学校では、先生のことだと、まるで根も葉もない噂が立つことがあるのよ。」
「そうかね、しかし朝倉先生のことはどうもほんとらしい。こないだ白鳥会の時にも、五・一五事件のことを話し出して、ひどくこのごろの若い軍人たちの考え方をけなしていられたんだから。」
「そんなにひどくけなしていらしって?」
「いつもの先生とはまるで人がちがっているような烈しさだったんだ。将来日本を亡ぼすものは恐らく彼らだろう、といった調子でね。」
 道江は眼を見張った。そして急に何かにおびえたように肩をすぼめながら、
「そんなこと言ってもいいのか知ら。」
 次郎は、いいとも悪いとも答えなかった。しかし彼の不満そうな眼が、あきらかに道江のそんな質問をけなしていた。彼はひとりごとのように、すぐ言った。
「朝倉先生だけだよ、今の時勢にそんなことが堂々と言えるのは。」
 道江は心配そうに次郎の顔を見つめていたが、
「もし、おやめになるのがほんとうだったら、どうなさる。」
「むろん、留任運動さ。朝倉先生がやめられたら、学校はもうまるで駄目なんだからね。きっとみんなも賛成するよ。いや、賛成させて見せるよ。僕、きょう、学校でそんな噂をきいたときから、そのつもりでいるんだ。」
「でも、そんなことなすったら、次郎さんたちも大変なことになるんじゃない?」
「どうして?」
「だって、先生のおやめになる理由がそんなだと……」
 次郎はきっと口を結んだきり、答えなかった。道江は、それでなお心配そうな顔をして、
「留任運動って、どんなことをなさる?」
「僕、さっきから、それを考えているんだよ。」
「まさか、ストライキなんかなさるんじゃないでしょうね。」
「誰がそんなばかなまねをするもんか。そんなことしたら、かえって朝倉先生に恥をかかせるようなもんだ。」
「でも、やり出したら、どんなことになるかわからないわ。」
 次郎は腕組をしてだまりこんだ。彼はさっきから苦慮していたのも実はそのことだったのである。彼は、留任運励そのものが、すでに朝倉先生の気持にそわないということを、よく知っていた。しかし、朝倉先生を失ったあとの学校のうつろさを考えると、じっとしては居れない。何が何でも留任は実現させなければならない。それが実現しないくらいなら、自分も学校をよしてしまった方がいい、というふうにさえ考えているのである。だから、運動をよす気には絶対になれない。たとい朝倉先生に叱られても、それだけは仕方がない、しかし、やり出せばストライキになる心配はたしかにある。第一、今度の校長があの通りだし、古くからの先生たちに対する生徒間の不満もずいぶんつもっているのだから、生徒の中には、騒ぐのにいい機会が見つかったと思って、喜ぶものがあるかも知れない。そんなことで、もし実際にストライキになってしまったとしたらどうだろう。ストライキ、とりわけ学校ストライキは、何といっても学校に対する脅迫《きょうはく》であり、一種の暴力である。事件の大小はべつとして、それはちょうど朝倉先生が極力非難した軍人たちの過ちを、そのままくりかえすことになるのではないか。暴力を非難したために迫害されている朝倉先生を暴力で護ろうとする。それは何という矛盾だ。何という不合理だ。そしてまた何という無意味さだ。それが朝倉先生を公衆の中ではずかしめることにならないと誰が言い得るのか。――次郎はそんなふうに考えて、いろいろ思いなやんでいたのである。
「白鳥会の人たちだけでおやりなっても、だめか知ら。」
 道江は、次郎が默りこんでいるのを同情するように見ながら、言った。
「そりゃあ、僕も考えてみたさ。しかし、こんなことは、やはり小人数ではだめだよ。少なくも五年級ぐらい団結しなきゃあ。それに白鳥会だけだと、何だか白鳥会のためにやっているようで変だよ。第一、それでは、ほかの連中が承知しないだろう、かえってそっぽをむいて笑うかも知れんね。」
「でも、それで次郎さんのお気持だけは通るんじゃないの。」
「なあんだ。」
 と、次郎は、あきれたようにしばらく道江の顔を見ていたが、
「女って、そんなものかね。」
 と、なげるように言って、ごろりと畳の上にねころんでしまった。
 次郎は、道江に対して、時おりこんなふうに失望を感ずることがある。彼は、叔父の大巻徹太郎の結婚式のおり、花嫁方の席にならんでいた道江をはじめて見た時から、何となく心をひかれ、その後大巻を中にして親戚づきあいが深まるにつれ、次第に彼女との親しみをまし、今では、淡いながらも、それが心地よい一種の匂いとなって彼の血管を流れているのであるが、彼女と何かまじめな問題について話しあったりしていると、彼は時おりそうした失望を感じ、淡い匂いが血管からすっと消えて行くような気になるのである。もっとも、そうした失望も、さほど深刻には彼の心にひびかないらしく、淡い匂いが、まもなくまた彼の血管にただよいはじめる。それは、恐らく、聰明《そうめい》ではあるが普通の女の常識の限界を一歩ものりこえない、ただすなおで、親切で、物わかりのいい道江の性質が次郎にもよくわかっていて、自然、彼女に求むるところが最初からそう大きくなかったからでもあろう。また道江が気だてもよく、年頃もちょうど兄の恭一にふさわしいというので、祖母をはじめ、俊亮や、お芳や、大巻の人たちの間に、よりよりその話があるのをきいており、彼自身でも、何かのひょうしに、将来の兄嫁に今のようなぞんざいな口のききかたをしてもいいのか知らん、などと考えたりするほど、それを決定的なことのように思っているせいもあるだろう。とにかく、彼が道江に対してしばしば失望を感ずるのも事実だし、また、そのために少しでも彼女をうとんずる気になれないというのも事実である。そして、彼自身でそれを少しも変だと思わないところに、彼のひそかな恋情がひそんでおり、彼の将来の運命に何かの影をなげる因子《いんし》が芽を出しかけているともいえるであろう。
「次郎さん、おこったの。」
 道江はねころんでいる次郎の横顔を見て、たずねた。
「おこってやしないさ。しかし、道江さんは考えかたが浅薄すぎるよ。人間はもっと真剣でなくっちゃあ。」
 次郎は、そう言ってもう半ばからだを起していた。
「すまなかったわ。でも、あたし、何だか心配なの。次郎さんにはどこか烈しいところがあるんですもの。」
 次郎は苦笑した。子供のころのことや、中学に入学したてに、五年生を相手に戦ったことが、心によみがえって来たのである。同時に、彼は、大垣前校長が口ぐせのように言っていた「大慈悲」という言葉を思いおこし、それを今度の朝倉先生の問題の場合にあてはめたら、自分たちはどういう態度に出るべきであろうか、と考えてみた。しかし、いくら考えてみても、その二つが彼の心の中でしっくり結びついて来なかった。ただ、朝倉先生の留任は「大慈悲」の精神にかなうが、万一にもそのための運動がストライキにまで発展したら、どんな立場から見ても、それにかなわないということだけが、はっきりしたのである。
 道江は、次郎が考えこんでいるのを、自分の言葉のききめだとでも思ったのか、
「やっぱり、どうしても留任運動はおはじめになるの?」
「そりゃあ、はじめるさ。方法はもっと考えるが、このままほってはおけんよ。」
 道江の予期に反して、次郎の答えは断乎《だんこ》としていた。しかし、彼はすぐ何かにはっとしたように、固《かた》く唇をむすび、じっと道江の顔を見つめた
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