あらかじめ会員に相談した上できめたいと主張したが、大沢は朝倉先生の考えを名案だと言って賛成し、俊亮も、とりあえずのところ、そうするよりほかあるまい、と言って、しいて反対もしなかったので、わけなくきまったのだった。送別会のことでは、俊亮までが次郎たちといっしょになって、熱心に朝倉先生を説いた。しかし先生は頑として承知しなかった。
文庫の運搬《うんぱん》は大沢と恭一とが引きうけて、あすのうちにとりはこぶことになった。
間もなくそろっておいとましたが、門を出ると、次郎はすぐ俊亮に言った。
「あすの夕方、先生は奥さんといっしょに、うちに来て下さるそうです。会員にもその時集まってもらってはいけませんか。」
俊亮は立ちどまってしばらく考えたが、
「そうか。じゃあちょっと待ってくれ。」
そう言って、彼はもう一度玄関に引きかえした。そして大方十分以上もたって出て来たが、
「よし、うまく行った。あすは先生に夕飯を差上げる約束をして来たんだ。会員にも夕飯を食べないで集まるように言ってまわってくれ。」
大沢は眼をまるくして、
「しかし、会員全部だと三十人ぐらいはいますよ。」
「三十人? そうか。しかしどうにかなるさ。鶏を四五羽もつぶせば間にあうだろう。」
次郎はこのごろにない愉快な興奮を覚えた。会員にはあす学校でつたえてもおそくはないと思ったが、新賀と梅本の二人だけには一刻も早く知らせて喜んでもらいたかった。
「じゃあ、僕、これからみんなにそう言って来ます。」
彼はもう走り出しそうだった。
「会員が集まることは先生には内証《ないしょう》だから、そのつもりでね。」
「ええ、わかっています。」
俊亮は、次郎のうしろ姿を見おくりながら声を立てて笑った。大沢も恭一もうれしそうに笑った。
一二 最後の晩餐
朝倉先生夫妻は、翌日、約束どおり夕食まえに俊亮の家にやって来た。二人とも、あいさつ廻りの固くるしい服をぬいで、先生は浴衣に袴《はかま》、奥さんは絽《ろ》に一重帯という手軽ないでたちだった。
白鳥会員は、二三の先輩をも加えて、もう二時間もまえに、ひとり残らず集まっていたが、きょう集まることになった事情はよく彼らにもわかっていたので、先生が見えるまでは姿を見せない方がよかろうという真面目な考慮やら、だしぬけに現われて先生をおどろかしてやろうという茶目気やらで、みんなそろって、栴檀橋から少し上流の、見とおしのきかないところで、水をあびていた。恭一は、二階で、きょう午前中に運びこんだ白鳥会の文庫の整理に夢中になっており、大沢と次郎と俊三とは、背戸《せど》の井戸端で午《ひる》すぎから取りかかった鶏の解剖――それは大沢の表現だったが――のあと始末やら、畑の水まきやらで忙しかった。また、お祖母さんとお芳とお金ちゃんとは、台所でてんてこ舞いをしていなければならなかった。で、先生夫妻がはいって来たときには、表の方は案外ひっそりしていた。
出むかえたのは、ひとり茶の間にいて、待遠しそうに外ばかり眺めていた俊亮だった。
夫妻はすぐ座敷にとおされた。
「はじめてあがりましたが、大変いい所ですね。」
「全くの百姓家です。見晴らしがきくのがとりえでしょうかね。今夜は月ですから、ゆっくりしていただきましょう」
「はじめての終りに心臓強く構えますかね。」
あらたまったあいさつは、どちらからも言わず、そんな言葉がとりかわされた。夫人はただにこにこして、二人の言葉をきいているだけだった。
間もなくお芳がお茶を汲《く》んで出た。
「はじめまして。……どうぞごゆっくり。」
彼女は、ただそれだけ言って引きさがろうとした。俊亮もべつに紹介しようともしない。
「奥さんでいらっしゃいますか。」
と、朝倉夫人が座ぶとんをすべって初対面のあいさつをしたが、くどくない、要領のいいあいさつだった。
夫人のあいさつがすんだあとで、先生もあいさつした。
「ご主人には始終ご厄介になっています。きょうは大変お手数をかけまして。」
そう言ったきりだった。
お芳は二人のあいさつに対して、「はい」とか「いいえ」とか「どうぞ」とか言うだけで、自分からはほとんど口をきかなかった。しかし、べつにまごついているようなふうでもなかった。かなり日にやけた頬に、例の大きなえくぼが柔かいかげを作っているのが、先生夫妻の眼には、いかにも素朴《そぼく》にうつった。
あいさつがすむと、もう古くからの知りあいででもあるかのような気安さが、二組の夫婦の間に流れていた。
「すぐおビールにいたしましょうか、よく冷えていますけれど。」
お芳が言った。
「うむ。奥さんにはサイダーをね。……しかし、先生、ちょっと汗をおふきになりませんか。風呂はわかしておりませんが、井戸端で行水でも。」
俊亮が言うと、
「そう。では、ちょっと失礼します。しかし、井戸端より川の方がいいんです。」
朝倉先生は、袴をぬぐと、ひとりで表の方に出て行った。
俊亮はそのうしろ姿を見おくりながら、何か可笑《おか》しそうな、しかしいくぶん当惑したような表情をしていたが、その表情が消えると、すぐしんみりした調子で朝倉夫人に言った。
「何だかお別れするような気持がいたしませんね。」
「ほんとに。」
朝倉夫人は淋しく微笑した。お芳のえくぼが一瞬消えたように見えたが、彼女はそのまま台所の方に立って行った。
十分もたたないうちに朝倉先生は帰って来た。その時にはもう、卓にはいく品かのご馳走がならんでいた。ぬれたビール瓶やサイダー瓶の周囲に、トマトや、胡瓜《きゅうり》やオムレツの色があざやかだった。
「永いこといて、一度も川にはいったことがありませんでしたが、すいぶんつめたい水ですね。」
先生はそう言って袴をはき出した。
「どうぞ袴はそのまま。」
と、俊亮が手で制すると、
「いや、行儀があまりよくない方ですから、袴をつけている方が却って楽なんです。」
座についてお芳にビールをついでもらいながら、先生はまた川のことを話題にした。
「この辺には水泳の禁止区域でもあるんですか。」
「いいえ、べつに。……何かあったんですか。」
「今、橋から一丁ばかりかみ手の方で、大ぜい泳いでいましたが、私の姿を見ると、しめしあわしたように、大いそぎで逃げ出してしまったんです。」
「変ですね。何かほかにわけがあったんでしょう。」
俊亮はむすがゆそうな顔をして答えた。
「あるいは中学生ではなかったか、とも思いますが、それにしてもあんなにあわてて逃げるのは変ですね。……恭一君や次郎君はうちにいますか。」
「ええ、いますとも。大沢君もいます。先生がおいでになるまえに、文庫や何か、すっかり片づけておくからと言って、はりきっていたようです。今にごあいさつに出るでしょう。」
それからお芳に向かって、
「先生がお見えのことほ、わかっているだろうね。」
「さあ、どうですか。」
と、お芳はのんきそうに答えたが、すぐ立ち上って、
「念のため知らしてまいりましょう。」
間もなく恭一があわてたようにあいさつに出た。大沢と次郎がつづいてやって来た。俊三も次郎のうしろに坐ってお辞儀をした。
文庫のことがまず話題になった。朝倉先生はすぐ二階の様子を見たいと言ったが、俊亮が、
「どうせ今夜は二階で月見をやる計画ですから、その時にしていただきましょう。」
と、言ってとめたので、そのままになった。
そのあと、お芳に代って、次郎たちが代る代るお酌をした。話もかなりはずんだ。それは、しかし昨日とちがって、朝倉先生の問題にはあまりふれず、大沢と恭一との高等学校生活が話題の中心になった。俊亮も、ビールのせいか、口がいつもより滑《なめ》らかだった。彼はわかいころの政治運動の失敗談などをもち出して、みんなを笑わせた。
朝倉先生は、酒量はさほど弱い方ではなかったが、それでも俊亮の相手ではなく、四五杯かたむけたあとは、コップにはいつもビールが半分ほど残っていた。
「あまりお強い方ではありませんね。」
俊亮はそう言って、無理にはすすめなかった。そして時には朝倉夫人にお酌をしてもらったりして、ひとりでぐいぐいコップを干した。
「奥さん、ご迷惑でしょうがもうしばらくご辛抱下さい。きょうは月見がてら、ご飯はみんなでごいっしょにいただきたいと言っていますから。」
彼は注いでもらいながら、そんなことを言った。
ビールが四五本もからになったが、日はまだあかるかった。俊亮は思い出したように次郎を見て、
「どうだい、もうそろそろ二階に移動してもいい頃じゃないかね。先生もあまりおのみにならんし、おまえたちもひもじいだろう。」
「ええ、ちょっと見て来ます。」
次郎は変に眼で笑って座を立った。
それから間もなくだった。茶の間から座敷にかけての瓦廂《かわらひさし》を、人の歩くらしい音が、ひっきりなしにきこえ、二階が何となくざわめき立って来た。静粛を保とうとする努力を、弾《はず》んだ肉体がたえず裏切っているといった音である。
俊亮と大沢とはずるそうに眼を見あった。恭一は少し顔をあからめてうなだれた。俊三もうなだれたが、しかし彼はこらえきれぬ可笑しさを押しつぶそうとしているかのようであった。
朝倉先生夫妻は耳をそばだて、眼を光らせて、天井を見た。
「何です、あの音は?」
朝倉先生は腰をうかすようにしてたずねた。
「きょうは、先生ご夫妻に、月見かたがた芝居をご覧に入れる趣向《しゅこう》なんです。」
「芝居ですって?」
「筋書きは次郎と私との合作ですがね。」
廂《ひさし》にはもう音がしない。二階のざわめきもしだいに落ちついて来た。
朝倉先生は、さぐるような眼をして、しばらく俊亮を見ていたが、
「生徒ではありませんか……白鳥会の連中でしょう。」
それはいかにも詰問《きつもん》するような調子だった。
「ご賢察のとおりです。とうとう悪事露見ですかね。ははは。」
朝倉先生は、しかし、笑わなかった。そしてちょっと眼をふせて考えていたが、
「いいんですか、そんなことなすって?」
「よくも悪くも、人間の真実は押し潰《つぶ》せませんよ。」
と、俊亮も真顔になった。いくらか熱気をおびた眼が、じっと先生を見かえしている。
「しかし、当局の神経の尖り方は想像以上ですよ。」
「よくわかっています。しかし、そう何もかも遠慮するには及びますまい。先生が白鳥会員と顔も合わせないでこの土地をお去りになるんでは、もうそれだけで、人間としての完全な敗北ですからね。」
朝倉先生は眼をつぶり、しばらく沈默がつづいた。すると朝倉夫人がいかにも心配そうに、
「でも、万一にも、そのために、生徒さんたちの中にご迷惑をなさる方がありましては。……主人はそれを心配いたしているのでございますが。」
「あるいは、一人ぐらいは迷惑するものがあるかも知れません。しかし、あるとすれば、それはおそらく次郎でしょう。」
朝倉先生は眼を見ひらいて、俊亮の顔を食い入るように見つめた。俊亮はその眼をさけるようにしながら、
「次郎は、しかし、そうなっても、決してうろたえはしないだろうと思います。」
またしばらく沈默がつづいた。大沢と恭一と俊三とが、朝倉先生と俊亮の顔をしきりに見くらべている。先生はいよいよ不安な眼をして、
「次郎君自身で、何かそのことについて言ったことでもあるんですか。」
「ありません。しかし、次郎は、元来そんな子供なんです。」
「あとにひかない性質だということは、私にもよくわかっていますが……」
「いや、あとにひかないという点だけを申しているのではありません。次郎は、人間の真実というもののねうちを、誰よりもよく知るように育って来た子供なんです。むろん、何が人間の真実かということについては、以前はすいぶん判断を誤ったこともありました。しかし、先生に教えていただくようになってからは、それもどうなり誤らなくなったように私は思います。これは全く先生のおかげだと思っています。」
「それにしても――」
と、朝倉先生は、俊亮の最後に言った言葉には無
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