でそんな自信があると名乗って出る人はまさかあるまい。しかし、もし私がこの人ならはと信じて頼んだとしたら、君らはその人を中心に気持よく白鳥会をつづけて行けるかね。」
「そりゃ行けますとも。そうなればみんなもきっと喜ぶでしょう。」
「もしその人が君のお父さんだとしたら?」
「え?」
「私は、君のお父さんに君たちの文庫をおあずけすると同時に、ぜひそのこともお願いしたいと思っているんだよ。」
「そんなこと、駄目です。父は承知しません。僕も不賛成です。」
次郎は何も考える余裕がないほど狼狽《ろうばい》していた。で、ほとんど反射的にそんな言葉が彼の口からつぎつぎに爆発したのである。
朝倉先生は、微笑しながら、
「君はお父さんをそんなに信用しないのかね。」
「だって、父は人を教えた経験なんかまるでないんです。本もそう沢山は読んでいないんです。」
「問題は教育者としての経験じゃない。本を読んで得た知識なんかじゃ無論ない。大事なのは人間だよ。」
「だって、……」
「君はお父さんを人間として信用しているはずだと思うが……」
「そりゃあ、……そりゃあ信用しています。」
次郎はどぎまぎして答えた。
「じゃあ、君が不賛成をとなえる理由はないよ。」
「僕、しかし、あんまり突飛《とっぴ》だと思います。」
「ちっとも突飛じゃあない。これほどあたりまえのことはないよ。」
「でも、みんなに笑われます。」
「君は君自身のお父さんだということにこだわっているからいけない。第三者として考えてみれば何でもないよ。新賀や梅本はきっと喜ぶだろうと思うね。……二人とも君のお父さんを知っているんだろう。」
「ええ、知ってはいます。」
次郎は、気乗りのしない返事をしながら、これまでに二人が何度も父にあい、そのたびごとにいい印象をうけたらしく、次郎に対してしばしば彼らの羨望の気持をもらしたことを思いおこしていた。
「とにかく私にまかしておくさ。間もなくお父さんも見えるだろう。」
「今日、父が来るんですか。」
「来ていただくようにお約束がしてあるんだ。」
ちょうど廊下に足音がきこえたが、それは奥さんが帰って来たのだった。次郎を見ると、
「あら、いらっしゃい。おひとり? お父さんはどうなすって? ごいっしょではありませんでしたの?」
「僕、学校のかえりなんです。」
「あら、そう。」
と、奥さんは朝倉先生の方を向いて、
「ごあいさつまわり、すっかり済まして参りましたの。やっぱりおひるぬきになりましたわ。」
「そうか。それはよかった。しかし、おかげで私もおひるぬきさ。」
「あら、お支度はあちらにして置きましたのに。」
「わかっていたよ。しかし、あまり腹もへらなかったのでね。」
「じゃあ、果物でも。……今、帰りに買って来たのがありますから。」
と、奥さんは次郎の方にちょっと眼をやりながら、
「あのう、本田さんのお宅だけは、あすにのばしましたの。今日お父さんにいらしっていただくのに、行きちがいになってもつまりませんので……」
「いいとも。私もどうせおうかがいしなけりゃならないし、都合では誰かに留守居を頼んで、いっしょに行くことにしよう。私は、あす一日あれば、一般のあいさつまわりは済ませるつもりだ。そのあとで、夕方の散歩がてら、ゆっくりおうかがいするのもかえっていいね。」
次郎は、きいていてうれしかった。また、先生夫妻の手さばきのいいのに感心もした。が、同時に、彼の頭に浮かんで来たのは学校の送別式のことだった。彼は先生夫妻をびっくりさせるほどの性急さでたずねた。
「すると、先生、学校の送別式はいつなんです。」
先生夫妻は顔を見合わせた。次郎は二人の眼つきから、直感的にある秘密を見て取ったような気がした。彼はいよいよせきこんだ調子になり、
「まだ学校からは何ともいって来ないんですか。」
「何ともいって来ないことはないさ。」
朝倉先生は考えぶかく答えて、眼をふせたが、すぐ笑顔になり、
「実は、私の方で、まだはっきりした返事を学校にしてないんだよ。」
「どうしてです。」
「いつがいいか、それがまだ私にもはっきりしないのでね。」
「でも、ほかの方へのごあいさつまわりは、もうきまっているんでしょう。」
「そうだ。それは早くすまして置く方がいいんだから。」
「学校の方はおそい方がいいんですか。」
「おそい方がいいというわけでもないが、なるだけうるさいことがないようにしたいと思ってね。」
次郎の頭には、馬田が提案した実乗院での送別会のことが浮かんで来た。
「もう誰か先生の送別会のことをいって来たんですか。」
「ああ。二三日まえ、馬田とほかに二三人、だしぬけにやって来て、そんな話をしていたよ。変なことを思いついたもんだね。」
「それはお断りになったんでしょう。」
「むろん断ったさ。しかしあの連中も罪が深いね。まだ辞令も出ないうちに、送別会の交渉に来るなんて。しかも場所が実乗院と来ている。」
朝倉先生は奥さんと顔見合わせて愉快そうに笑った。次郎は苦笑しながら、
「あんなこと、いけないと思ったんですが、どうせ先生がお断りになるだろうと思って、僕もいいかげんに賛成しておいたんです。」
「まあ、まあ。」
奥さんは手巾《ハンカチ》を口にあてて、しんから可笑しそうに笑った。
「しかし、それをお断りになったんなら、もうほかにうるさいことはないんでしょう。」
「そうでもなさそうだ。うるさいのは生徒ばかりではないからね。とにかく送別式は私の出発の日にやってもらいたいと思っている。式がすんだら、すぐその足で駅に行けるような時間にね。」
「え?」
と、次郎はおどろいたように朝倉先生の顔を見つめ、それから、奥さんの方に視線を転じた。しかし、二人ともすました顔をしている。
「いったい、いつごろご出発です。」
「あさって。」
と、朝倉先生は奥さんを顧みて、
「大丈夫、あさっては立てるだろう。」
「ええ、お二階の文庫さえ片づけば。」
次郎は眼をまるくして二人を見くらべていたが、急にくってかかるように言った。
「すると、僕たち白鳥会員はいつお別れの会をすればいいんです。」
「べつにあらたまってそんな必要もないだろう。」
「先生!」
と、次郎は泣声になり、
「それは無茶です。僕たちは、まだ、先生がこれからどんなお仕事をされるか、まるで知ってないんです。どこに行かれるかも知ってないんです。」
「何をするかは、私自身にもまだはっきりわかっていない。行く先は一先《ひとま》ず東京だ。みんなには君からそう言っておいてくれたまえ。送別式の時には言うつもりではいるがね。」
「先生!」
次郎は叫んでテーブルの上につっ伏した。両肩が大きく波うっている。
「何も激することはない。小さなことにとらわれてはいかんよ。」
「小さなことじゃありません。」
「別れの会なんか、どうでもいいことだよ。もっと永久のことを考えてもらいたいね。」
「永久のことを考えるから、言っているんです。」
次郎はまだつっ伏したままである。
「そりゃ私も、みんなにもう一度集まってもらって、ゆっくり話して置きたいことがないではない。しかし集まらない方がいいんだ。」
「どうしてです。」
次郎は、涙にぬれた眼をしばたたきはがら、にらむように先生を見た。
「集まったために不幸を見る人が、君らの中から一人でも出てはならないんだ。」
朝倉先生の調子には、何か悲痛なものがあった。次郎はテーブルの一点に眼をすえて默りこんだ。その眼はしだいに乾いて来た。乾くにつれて、つめたい異様な光がその底から漂った。しばらくして、彼は、
「わかりました。」
と、庭ごしにじっと遠くの空を見たが、その口は固く食いしばっており、頬の筋肉はぴくぴくと動いていた。
「ばかばかしくても、ひかえるところはひかえていた方がいいんだよ。何しろ、当局の神経のとがりようはまるでヒステリーだからね。」
朝倉先生はなだめるように言ったが、
「しかし、こんな調子では、日本もいよいよけちくさくなるね。よほど君らにしっかりしてもらわなくちゃあ。」
次郎の食いしばった口は、いよいよ固くなるばかりだった。
「果物でも持って参りましょうね。」
さっきから心配そうに次郎の横顔をじっとのぞいていた奥さんは、気持をほぐすように立ち上って、廊下に出た。が、すぐ、
「あら、どなたかいらっしゃったようですわ。」
と、小走りに玄関の方に走って行った。
玄関からは間もなくにぎやかな話声がきこえて来た。奥さんがおどろいたように、しかし、しんからうれしそうに迎えているらしい声にまじって、二三人の男の声がきこえた。その一人はすぐ俊亮だとわかったが、ほかはちょっと判断がつかなかった。
朝倉先生と次郎は聞き耳を立てながら、眼を見あった。
「ひとりは大沢の声のようじゃないかね。」
先生が言った。すると、次郎は飛上るように立って、廊下に出た。
「ちょうど次郎さんもお見えになっていますわ。」
そう言っていそいそと歩いて来る奥さんのうしろに俊亮、そのうしろに大沢と恭一とが、おそろしく日焼けのした顔を、よごれたシャツからつき出して、つづいていた。
「おめずらしいお客さまですわ。」
奥さんは、朝倉先生にそう言って三人を部屋に案内すると、いそいで台所の方に行った。
俊亮は、座につきながら、
「私がちょうど出かけようとするところへ、恭一が大沢君をつれてだしぬけに帰って来たものですから、汗もろくろく流させないで、いっしょにお伺いしたわけなんです。」
そのあとしばらくは、みんなの間に、無量の感慨をこめた手みじかな言葉がとりかわされた。しかし、話は次第にこみ入った。大沢と恭一とは、今度の問題について誰からも何の通知もうけなかったことについて不平を述べた。これには次郎がひとりであやまった。朝倉先生は、しかし、
「知らせなかったのは賢明だったよ。知らせたところで、どうせ何の役にも立たないし、或はかえって有害だったかも知れないからね。」
と言って笑った。
次郎が血書を書いたり、終始一貫ストライキ防止に骨を折ったりしたことについては、大沢も恭一も強く心をうたれたらしかった。しかし、大沢は言った。
「ストライキをくいとめたのはいいが、このままでは、学校はくさってしまうね。大事なのはこれからだと思うが、どうするつもりなんだ。」
すると、次郎が答えるまえに、朝倉先生が、なぜか叱るように言った。
「そういうことは、君のような第三者が立ち入らなくてもいいことだ。これまで渦中《かちゅう》にとびこんで散々苦労をして来た次郎君は、君らの想像以上に、ものを深く考えるようになっているからね。」
これには大沢もすっかり面くらった。しかし、大沢以上に面くらったのは次郎だった。彼は顔をほてらせながら、朝倉先生の顔と俊亮の顔とをぬすむように見くらべた。
そのうちに奥さんが菓子と果物を運んで来た。菓子は袋ごと、果物は籠《かご》ごとだった。
「もうお茶のご用意も出来ませんの。でも、すぐ氷が来ますから、しばらくがまんして下さいね。」
そう言って奥さんは菓子の袋をやぶったが、中は丸ぼうろだった。果物籠からは、水蜜桃がみずみずしい色をのぞかせていた。
かなりの速度で、丸ぼうろと水蜜桃とがへって行った。氷がはこばれたころには、もうどちらも大かたなくなっていた。テーブルの上には、雫《しずく》が点々と落ち、その中央にひろげられた古新聞紙には水蜜桃の皮と種とが、ぐじゃぐじゃにつまれ、部屋じゅうがしめっぽく感じられた。
その間にも話はつきなかった。大沢と恭一と次郎とは、しきりに憲兵隊や県当局に対する憤懣《ふんまん》をもらし、朝倉先生は、もっと大きな立場から時代を憂えた。俊亮と奥さんとはいつも聞き役だった。そして、おりおり思い出しては荷物のことなどを相談していた。
最後に話は白鳥会の文庫の始末と、会員の朝倉先生送別会のことに落ちて行った。文庫の始末については中心になる人の問題にはふれないで、ともかくも朝倉先生の提案どおり、一応次郎の家に運ぶことになった。恭一と次郎とは、
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