ような顔は、面をかぶるとその特徴を失い、眼玉だけが鋭く光るのだったが、その鋭い光の中にもどこかに温かさがただよっているのを、次郎はいつも感じていた。それが今日はとくべつはっきりと感じられたのである。
 二人は、その時間ぶっとおしで、相手をかえずに戦った。稽古やめの合図があった時には、さすがに二人ともへとへとにつかれていた。
 二人は、汗みずくになった剣道着をぬぎ、柔道場に通ずる廊下の横に設けてあるシャワーでからだを洗うと、すがすがしい気持になって、いっしょに校門を出た。大山の満月のような顔が、すこし赤味をおびて光っていた。次郎の眼には、それがいかにもゆたかで新鮮だった。
「きょうはいい稽古になったよ。」
 歩きながら次郎が言った。
「しかし、つかれたね。ぶっとおしだもの。」
 大山が笑いながら答えた。
「君に面をとられると、ぼうっとなるほど痛いが、しかしあのぐらい痛いと却って気持がいいね。」
「そうか。」と、大山は間がぬけたように答えたが、
「君の小手も痛いね。それによくはいるよ。きょうは三対一ぐらいだったかも知れん。」
「そんなことはないだろう。」
 次郎は否定しながらも、自信はあった。少くとも二対一ぐらいの差はたしかにあったと思った。しかし、その自信は、彼にとって決して愉快な自信ではなかった。小手取りの名人、――そう考えると、それがそのまま自分の弱点のような気がしたのである。
 彼の気持は、また少しずつかげりはじめた。かげりはじめると、きょうの不愉快な出来ごとがつぎつぎに思い出された。曾根少佐のこと、馬田のこと、そして何よりも朝倉先生の送別式について何の掲示も出ていなかったこと。
 彼は、曾根少佐や馬田のことを、大山に話す気には少しもなれなかった。しかし、朝倉先生の送別式のことだけは、思い出すと、どうしても默っていられなかった。
「きょうの掲示、君は変だとは思わなかった?」
「掲示? 朝倉先生のあれかい。」
「うむ、いつもは送別式のこともいっしょに出るんだろう。」
「そうだね――」
 と、大山は首をかしげたが、
「うむ、いつもは出るようだ。」
「今度はどうして出ないんだろう。」
「さあ、どうしてだかね。たぶん、まだ日がきまっていないんじゃないかな。」
 さっき掲示台のまえで生徒の一人が答えたのと同じ答えだった。次郎は、しかし、今度は大山を低能だとは思わなかった。大山を低能だと思うまえに、自分だけが無用に学校を疑っているんではないか、と思った。誰も何とも思っていないのに、自分だけがどうしてこうも疑うのか。そう思ったとたん、ふたたび彼の頭に浮かんで来たのは、運命という言葉であった。
 彼ははっとして思わす立ちどまった。大山も立ちどまって彼をふりかえったが、その顔は相変らず満月のように明るかった。次郎はその顔を穴のあくほど見入って、ふかいため息をついた。
「どうしたい?」
 大山の眼玉がぱちくりと動いた。
「うむ――」
 次郎はそれだけ言ってまた歩き出した。大山も默って歩き出した。二人はそれっきり、しばらく口をききあわなかった。
 朝倉先生の家に行く曲り角まで来ると、次郎は立ちどまって、
「僕、失敬する。こっちに用があるんだ。」
 すると大山も立ちどまって、
「朝倉先生のうちに行くんか。」
「そうだよ。」
 次郎はためらいながら答えた。
「そんなら、僕も行こう。」
 大山は先に立って歩き出しそうにした。次郎は、大山といっしょに朝倉先生をたずねるのが決していやではなかった。しかし、今日はなぜかひとりでたずねてみたかったのである。で、彼はつっ立ったまま、返事をしぶっていた。
 すると大山は、また眼をぱちくりさせながら、
「きょうは、僕いっしょに行ってはわるいんか。そんなら、あすにするよ。僕はただあいさつするだけなんだから。――じゃあ、さよなら。」
 水の流れるような自然さだった。次郎は大山のうしろ姿を見おくりながら、すまないというよりか、むしろ、うらやましいという気でいっぱいだった。そんて、なぜ今まで大山を白鳥会にさそいこまなかったろう、もし彼のような生徒がその一員に加わっていたとすれば、自分は、新賀や、梅本や、そのほかの生徒たちからは到底学ぶことの出来ないものを、これまでに学んでいたであろうのに、と思った。

    一一 最後の訪問

 朝倉先生の家では、奥さんが留守らしく、案内を乞うと奥の方から先生の声がきこえたので、次郎はさっさと上って行った。予想していたとおり荷造りはもうすっかりすんでいた。そしてその大部分はすでに発送されたあとらしく、いく梱《こり》かの荷が小ぢんまりと一ところに積んであり、がらんとなった部屋々々は掃除までがきれいに行きとどいていた。庭先にも藁切れ一つちらかっていない。ただ古ぼけた畳に、物を置いてあったあとだけがいやにきわ立って新しく見えた。
 朝倉先生は、いつもの部屋で次郎を迎えたが、そこには、これまで二階の白鳥会の読書室にあった大きなテーブルがすえてあり、そのまわりに座ぶとんが二三枚しいてあるきりだった。次郎がはいって来るまで、先生はひとりで読書していたらしく、王陽明の伝習録がテーブルの上にふせてあった。
「やっと発表になったよ。」
 次郎を見ると、先生はすぐそう言って笑った。次郎は、お辞儀をしたきり、顔をふせてだまっていた。玄関をあがってここまで来る間に見た家の中の光景が、彼の気持をはげしくゆすぶっていたのである。
「掲示はもう出たのかい。」
「はい。」
「とにかく変なさわぎにならなくてよかったね。」
「はい。」
「君に大変骨を折って貰ったそうで、ありがとう。」
 次郎はやっとまともに先生の顔を見た。先生もまともに次郎を見ていた。深く澄んだ眼の底から、愛情が白百合のように匂って来るのを感じながら、次郎はたずねた。
「僕たちのやっていたこと、先生にもわかっていたんですか。」
「わかっていたよ、あらましのことは。」
「どうしておわかりだったんです。だれか生徒がおたずねしたんですか。」
「生徒は来ない。しかし、君のお父さんが何度も来て下すったんでね。」
「父が?……そうですか。」
 次郎はちょっと意外だった。しかし、考えてみると、ありそうなことではあった。
「来ていただいては君のためによくないと思って、何度もそう申したんだが、お父さんは、『大丈夫だ。次郎も本筋だけは大してまちがっていないようだから』とおっしゃって、まるでとりあわれなかったんだ。」
 次郎の眼はまたひとりでに伏さった。重苦しいほどの幸福感で、急に胸がいっぱいになったのだった。
「荷物がこんなに早く片づいたのも、君のお父さんに何かとお世話を焼いていただいたおかげなんだよ。永いことこの家に住んでいたんで、がらくたあだいぶたまっていたが、それも君のお父さんが一切引きうけて、古道具屋に売って下すったんだ。あんなことにもお心得があるんだね。」
 次郎は幼ないころに経験した自分の家の売立の日のことを思い起し、ちょっとほろにがい気持になったが、一方では、そんな場合の父の超然《ちょうぜん》とした顔付を想像して、何かユーモラスなものを感じた。
「父はそんなことには以前からなれているんです。」
「そうかね、元来商売のお上手な方でもなさそうだが。」
「商売は下手です。ですから、きっと安く売ってしまったんでしょう。」
 二人は声を立てて笑った。
「安くも高くも、とにかくがらくたの始末をつけていただいて助かったよ。それで、あとは、このテーブルと二階の君たちの文庫の始末なんだがね。」
「文庫はまだあのままですか。」
「あれは君たちのものなんだから。」
「でも僕たちの本はごくわずかしかないんです。たいていは先生のご本でしょう。」
「私にはもういらない本ばかりだ。あのまま残して置いて、これまでどおり君たちに読んでもらいたいと思っている。しかし、この家に残して置くわけには行かんし、どこか適当なところに運んでもらわなくちゃならないんだ。どうだい、いっそ君の家に運んでは。」
「僕のうちにですか。」
 次郎は眼を見はった。
「実は君のお父さんにも、ちょっとそのことをお話してみたんだが、べつに反対もされなかったようだ。しかし、君の考えをきいてみてからにしたいと言っていられた。……部屋はあるそうじゃないか。」
「二階を弟と二人で勉強部屋にしているんですが、それよりほかにはないんです。」
「その部屋は広いんだろう。」
「ええ、一間きりの総二階ですから、ばかに広いんです。しかし、天井も何もない物置みたいなところです。」
「天井なんか、どうだっていいよ、広くさえありゃあ。……このテーブルぐらいすえてもゆっくりなんだろう。」
「ええ、このぐらいのテーブルなら三つ位大丈夫です。しかし、みんなには不便でしょう。少し遠いんですから。」
「栴檀橋《せんだんばし》の近くなら、遠くったって知れたもんだ。学校からせいぜい三十分ぐらいじゃないかね。それにあの辺は空気もいいし、場所としてはここよりか却っていいだろう。」
 次郎にとっては、これは、しかし、かろがろしく返事の出来ることではなかった。白鳥会の文庫も、それが朝倉先生と直接に結びついていたればこそ意味があったのだ。それを自分の家に運んでみたところで、指導の中心を失った今となっては、大して用をなさないであろう。単に小さな図書館の役目をするだけのことなら、わざわざ遠い郊外まで行かなくても、もっと完全なのがこの町にもあるのだから。むろん白鳥会の命脈《めいみゃく》はたやしたくない。それには一定の集会所がほしいし、集会所を持つとすれば、この文庫も生きてくる。しかし、自分の家が果してその集会所に一番適したところであるかどうか。かりに適したところであるとしても、それをみんなに諮《はか》らないで、文庫だけを先に運んでしまうのはどういうものだろうか。彼はそんなふうに考えて、急には返事が出来なかったのである。
 朝倉先生も、何かちょっと思案していたが、
「君、白鳥会は何とかしてつづけていってくれるだろうね。」
「それはむろんです。」
「しかし、君も、もう間もなく卒業だね。」
「ええ。」
 次郎は心細そうに答えた。
「君や、新賀、梅本がいる間は大丈夫だと思うが、四年以下の会員は、まだ何といっても、ほんとうの気持をつかんでいないので、来年あたりからのことを考えると、何だか心もとなくなるね。」
 朝倉先生にしてはめずらしく沈んだ調子だった。次郎は返事をしないで、かすかなため息をついた。
「それで私は、誰か私に代って世話をやいてくれる人がほしいと思っているんだ。」
「そうしていただくと、僕たちも心強いんです。しかし、そんな先生がありましょうか。」
「学校の先生にはない。しかし、先生でなくてもいいわけだ。いや、先生でない方が却っていいんだよ。一つの学校に籍《せき》を置いている先生が中心になると、どうしても会員がその学校の生徒だけに限られることになるからね。」
 次郎は、けげんそうな眼をして、朝倉先生を見た。
「実は、私は、これまでほかの学校の生徒たちにも加わってもらいたかったんだ。単に学生ばかりではない。仂いている一般の青年たちにも加わってもらったら、君たちのためにもどんなにいいだろう、と、いつもそう考えていた。身分とか、階級とか、職業とか、所属の団体とか、そういったものを一切超越して、いろんな種類の人たちが、人間として真剣にぶっつかりあう。そんなところまで行かなくちゃあ、白鳥会も本ものではないからね。しかし、そこまでは私も手がのびなかったんだ。手がのびなかったというのは、各方面にまじめな青年を求める機会がなかったというのではない。まじな青年は幾人も見つかったし、誘いこんでもみたさ。しかし誘いこまれる方では、やはり中学の先生と生徒の集まりだ、という先入観があるものだから、つい尻ごみしてしまうのだ。で、私はこの機会に、どこの学校にも直接関係のない人にお世話を願ったらと思っている。」
「しかし、先生のあとをついでやろうというほどの自信のある人がありましょうか。」
「自分
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