食でもあわれむような気持で、あわれんでいたのだ。今は、あべこべに、自分こそあわれまるべき位置にある!……それにしても、同じ先生でありながら、いや、同じ人間でありながら、朝倉先生と宝鏡先生とでは、どうしてこうもちがうものか。)
彼は、今さらのように、人間がめいめいの生活態度によって、いかに自分の人間としての価値を上下しているかを考え、粛然《しゅくぜん》とならざるを得なかった。
しかし、彼のこの気持は、そう永くはつづかなかった。というのは、彼の心の片隅に、いつとはなしに一点の黒い影が動き出し、たちまちのうちに彼の気持全体をかきみだしてしまったからである。それは、ちょうど、清水の底にひそんでいた小魚が、急ににごりを立てて泳ぎ出し、縦横にはねまわったようなものであった。
運命! それは、彼が意識すると否とにかかわらず、いつも彼の心の底に巣食っている問題であるが、それが今濁り水のように、彼の心におおいかぶさって来たのである。
(宝鏡先生には宝鏡先生の運命があり、朝倉先生には朝倉先生の運命があるのだ。かりに宝鏡先生が朝倉先生ほどのまじめな生活態度をとったとしても、朝倉先生と同じ人間価値を発揮し得たとは思えない。いや、朝倉先生のような真面目な態度をとり得なかったところに、すでに宝鏡先生の運命があったのではないか。祖先から伝わる血、天分、それを運命でないと誰がいいうるのか。ひとり祖先からつたわる血や天分だけではない。物ごごろつくまでの生活環境だって同じだ。苗《なえ》の時に曲げられた木の幹を、誰が完全に真直にすることが出来るのだ。)
ここまで考えて来た彼は、もう彼自身の幼年時代の、憎悪と、策略と、偽善と、闘争《とうそう》とに駆り立てられていた頃の生活を思い出した。そして、それを彼の最近の心境とてらし合わせて、思わす身ぶるいした。
(もし、自分がこないだ日記に書いたことが、自分の幼年時代に根をおろした運命のいたずらに過ぎないとすると――)
彼はなぜかやにわに起きあがって、あたりを見まわした。近くには誰もいなかった。掲示台のまえには、相変らず生徒たちがむらがってさわいでいる。彼はその方にちょっと眼をやったが、すぐ視線を転じて、見るともなく、玄関の左側になっている生徒監室の窓を見た。永いこと朝倉先生が生徒監主任として机をすえていた、そのすぐうしろの窓なのである。
彼は一瞬はっとした。もうさっきから自分を見ていたらしい四つの眼に出っくわしたからである。ひとりは曾根少佐、もうひとりは西山教頭だった。
彼はあぶなく眼をそらすところだった。が、彼の本能的な反抗心がそれをゆるさなかった。こうした場合、眼をそらすことは、彼にとって、敗北と屈従以外の何ものをも意味しなかったのである。
無表情ともいえるほどの冷たい眼が、またたき一つせず、窓わくの中にならんでいる四つの眼に、永いこと注がれていた。四つの眼もまた、彼を凝視《ぎょうし》したままほとんど動かなかった。ただ、おりおり小声で何か話しあうらしい唇の動きや、うなずきあいによって、その表情にいくらかの変化を見せているだけであった。
二分間近くの時間がそのまま過ぎたが、そのあと、西山教頭の姿が急に窓から消えた。すると、曾根少佐は、その蟇《がま》のような口を、だしぬけに横にひろげ、白い大きな歯並をカイゼルひげの下に光らせた。にやりと笑ったのである。
次郎の眼は、やはり無表情のまま、つめたくそれを見つめていた。すると、少佐は、今度は窓から上半身をのり出し、右手を高くあげて彼を手招きしながら、叫んだ。
「本田ア、ちょっとここまで来い。」
次郎は、しかし、立ちあがらなかった。立ちあがる代りに眼をそらした。
「おうい、本田ア――」
もう一度少佐が叫んだ。
「僕ですか。」
と、次郎は、はじめて気がついたような顔をして、少佐を見た。
「そうだ。ここでいいんだ。ちょっと来い。」
少佐はあごの先で窓下の地べたを指した。次郎はやっと腰をあげたが、いかにも無精《ぶしょう》らしくのそのそと歩き出した。
「呼ばれたら、いつも駈走だ。」
次郎が窓下に来ると、少佐は叱るように言ったが、すぐ笑顔になり、
「どうしてあんなところに一人でねころんでいたんだ。」
「ねむたかったからです。」
「ひるねか、ふうむ。」
と、少佐は上眼をつかい、まぶたをぱちぱちさせた。それから急に真顔になり、
「どうだ、感想は?」
「感想って何です。」
「掲示を見たんだろう、朝倉先生の。」
「見ません。」
「見ない?」
「ええ見ません。」
少佐はちょっと考えていたが、
「どうして見ないんだ。朝倉先生の退職の辞令が出たんだぜ。」
「わかっているんです。」
次郎の声は、いくぶんふるえていた。
「そうか、ふうむ――」
と、少佐はまた上眼をつかい、しばらくまぶたをぱちぱちさせていたが、急に窓わくに頬杖をつき、声をひそめて言った。
「君の気持はよくわかるよ。わしは十分同情もしているんだ。しかし、事情が事情だし、こうなった以上は、さっぱりあきらめる方が賢明だよ。どうだい、授業が終ったら帰りにわしのうちに遊びに来ないか。煎餅でもかじりながら、ゆっくり話してみたいことがあるんだが。」
次郎は、返事をする代りに、穴のあくほど少佐の顔を見つめた。少佐はそれをどうとったのか、頬杖をついたまま、両手でしきりにカイゼルひげをひねりながら、眼をほそめて笑った。
次郎は、しかし、いつまでたっても返事をしない。
「実はね――」
と、少佐は、いかにもうしろをはばかるように、一層声をひそめ、
「このごろわしあてにちょいちょい投書が来るんだが、それが大てい君に関係したことばかりなんだ。その中には君が女に関係があるようなことを書いたのもある。まさか君にそんなことはあるまいと思うが、とにかく面白くないことだ。一応君の弁明もきいておきたいと思っている。むろん、わしあての投書は、それを学校の問題にしようとしまいと、わしの勝手だから、まだどの先生にも話してないんだ。どうだい、そんなこともあるし、よかったらやって来ないか。」
次郎は、曾根少佐が自分に対する好意からそんなことを言っている、とはむろん思わなかった。
(ついさっきまで、西山教頭と二人で自分の方を見ながら何を話しあっていたのだ。)
彼は、そう反問してやりたいぐらいだった。
「ご用はそれだけですか。」
彼はまともに少佐を見あげてたずねた。皮肉以上のつめたさである。
「う、ううむ、――」
と、少佐は、それまでひねりつづけていたひげから、急に指をはなした。その指は、ばねのとまった機械人形の指ででもあるかのように、ひげの先端にぴたりととまって動かなかった。
次郎は平然として返事をまっている。
「そうだよ。用事はそれだけだよ。しかし是非にとは言わん。来たくなけりゃあ、来なくてもいいんだ。」
少佐自身では、怒った調子の中に、言外の意味をふくませたつもりで言った。次郎には、しかし、却ってそれが滑稽にきこえた。彼は内心ひそかに勝利感を味わいながら、
「きょうは、僕おたずね出来ません。」
「どうして?」
「朝倉先生をおたずねするんです。」
少佐の眼がぎろりと光り、カイゼルひげがぴりぴりとふるえた。次郎は、少佐の顔は笑っている時よりも怒っている時の方がよほど好感がもてる、と思った。
「そうか、じゃ好きなようにせい。」
少佐は言いすてて窓をはなれた。床板をふむ靴音があらあらしくひびいて、少佐の姿が消えると、次郎は、すぐ、もとの白楊《ポプラ》の根元に向かって歩き出した。
彼は、しかし、そこに行きつくまえに、掲示台のまえがいやに静かになっているのに気がついて、思わずその方を見た。生徒たちの沢山の眼が、もうさっきから、じっと自分を見つめていたらしい。彼は思わず眼をそらした。が、すぐ立ちどまって、きっとその方を見かえした。沢山の眼のなかには、急いで彼の視線をさけたものもあった。が、多くの眼はやはり動かなかった。その中には馬田の眼もあった。その眼にはかすかな笑いさえ浮かんでいるように、次郎には思えたのである。
次郎はしばらくつっ立っていたが、間もなく思いきったように、掲示台に何かってまっすぐに歩き出した。
彼を見つめていた生徒たちは、すると何かにおどろいたように、一層眼を見はった。しかし、それはほんの一瞬だった。次の瞬間からは、彼らの視線は次第にそれ出し、次郎が彼らの群から十歩ほどのところまで来た時には、もう誰も彼を見ているものはなかった。中には、そ知らぬ顔をして掲示台のまえを立ち去るものもあった。馬田もそのひとりだったが、彼は仲間のひとりと肩をくみ、わざとらしい笑声を立てながら、次郎の来た方とは反対の方に立ち去ったのであった。
次郎は、何か異様な、つめたい怒り、とでもいったような感じにとらわれたが、ちらと馬田のうしろ姿を見ただけで、すぐ掲示板の方に眼をやった。辞令の文句は宝鏡先生の時と全く同じだった。
「願ニ依リ本職ヲ免ズ」
何という簡単な、型にはまった文句だろう。どんなに自分たちの尊敬している先生でも、辞表を出せば、ただこの文句一つでわけなく片づけられて行くのだ。そう思って彼はむしょうに腹が立った。
しかし、次郎の気持を一層刺戟したのは、先生の転任や退職の場合には、その辞令の発表と同時に、いつも送別式の日時が発表される例になっているのに、それについては何の掲示も出ていないことだった。
「おい、君――」
と、彼はあわてたように、彼の一番近くに立っていた生徒の肩をいきなりゆすぶってたずねた。
「朝倉先生の送別式はいつあるんだい。」
「知らないよ、僕、そんなこと。」
肩をゆすぶられた生徒は、おこったように答えた。
「これまでは、辞令の発表といっしょに掲示が出たんじゃなかったかね。」
「そうだったかね。」
「どうして今度は出ないのだろう。」
「まだきまってないからだろう。」
相手は、まるでそれを問題にしていなかったらしかった。
「そうかなあ。」
次郎は仕方なしにそう答えたものの、心の中では、相手を低能だと罵《ののし》りたくなるくらいだった。
(学校は朝倉先生の送別式をおそれている。それで、何とかして、それをやらない工夫をしているんだ。)
彼には、そう疑えてならなかったのである。
間もなく午後の課業がはじまった。次郎たちのクラスは武道の時間だった。彼は剣道場に入って面をかぶりながら、入学後はじめて朝倉先生を知ったのが、ちょうど剣道の時間の直前だったことを思い出し、何か物悲しい気持にさそいこまれた。あの時、自分が、剣道は何のために稽古をするのか、という質問を出したのに対して、先生は、言下に、「見事に死ぬためだ」と答えられ、その意味を懇《こん》々と教えて下すったが、それがほんとうに理解出来たのは、いつごろのことだったろう。彼はそんなことを考えながら、稽古の相手を選ぶために向こうの側の列を見た。すると正面に大山がおり、そのすぐ隣りに馬田がいた。
(よし、相手は馬田だ――)
彼は一瞬そう思った。が、同時に彼は胸にひやりとするものを感じた。
(卑怯者! それでおまえは朝倉先生の言われた剣道修行の意味がわかっているといえるのか。馬田と戦うにしても、道はべつにあるはずだ。)
間もなく稽古はじめの合図で立ちあがったが、彼が選んだ相手は、正面の大山だった。大山はそののんびりした性格どおり、太刀筋に極めて鷹揚《おうよう》なところがあった。しかし決して下手ではなかった。すきだらけのように見えて案外すきがなく、大きくふりおろす太刀先にはきびしい力がこもっていた。次郎の太刀はその俊敏さにおいて級中第一の評があり、大山のそれとはいい対照をなしていた。勝負では次郎の方にいつも勝味があったが、しかし次郎本人は、却って大山の太刀筋をうらやましくも思い尊敬もしていた。
次郎は大山を相手に選んで、救われたような気持だった。「見事に死ぬ」稽古の相手を、もし生徒の中から選ぶとすれは、それは大山だろう、という気にさえなったのだった。大山の満月の
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