「なぜ有害無益だ。」
「定見のない、無責任な群集は、ただ興奮するだけだ。」
「何? 定見のない無責任な群集? 君は全校生徒を侮辱する気か。」
「侮辱する気はない。事実そうにちがいないから、そう言ったまでだ。」
「まだ集まってもみないで、どうしてそんな断定が下せるんだ。」
「それは諸君自身のこれまでの態度が証明している。選ばれた委員だけが集まってさえ理性を失いがちなのに、生徒大会が冷静でありうると思うのか。」
 これには満場騒然となった。すると次郎は、にたりと冷たい微笑をもらし、みんなを見まわしたあと、
「そうれ、すぐそのとおりになるんではないか。」
 それから急に顔をひきしめ、少し沈んだ声で言った。
「現在僕たちに残された道は、朝倉先生の教え子らしい態度と方法で、先生をお見おくりすることだけなんだ。そりゃあ、僕だって、諸君と同じように、興奮したくもなる。……しかし興奮してさわぎを大きくするだけ、僕たちは僕たちの敗北を大きくすることになるんだ。今はただ先生をきずつけない方法を考えることが、僕たちにとって一番大事なことではないかね。」
 次郎の声は、その時いくぶんふるえており、眼に涙がにじんでいそうに思われた。
 みんなは、つい、しいんとなってしまった。そして生徒大会のことも、それで立消えになってしまったのである。
 生徒大会のことがどうなり片づくと、次郎は機を失せず、
「朝倉先生の問題に関するかぎり、校友会の委員会はもう今日で打切りにしたい。で、今日のうちに先生送別の方法について考えておこうではないか。」
 と提案した。
 これには、新賀や梅本でさえさすがに変な顔をした。むろん馬田一派はここだとばかり猛烈に反撃して来た。
「血書を撤回しない以上、留任運動は今でもつづいているということがわからんのか。」
「委員会なくして何が留任運動だ。」
「血書万能の夢も大ていにしろ。」
「おもてで留任運動、うらで送別会の計画、僕たちにはわけがわからんよ。」
「こんどは送別の辞でも書きたいのだろう。」
「なあに、送別の辞は血書より早く出来ているんだよ。」
 そんな罵声《ばせい》やら、冷かしやらが、方々から起った。しかし、そこいらまではまだいい方であった。あとでは、次郎を真正面から、偽善者だ、卑怯者だ、裏切者だ、とののしり、彼に退場を要求するものさえ出て来た。
 次郎は、しかし、そうした罵声の中で、微塵も興奮した様子を見せなかった。こうした場合にいかに振舞うべきかを、彼は彼の幼いころの生活から見事に学びとっていたのである。彼は罵声が発せられるごとに、しずかにその方に眼を転じて、無言のままじっとその声の主を見つめた。その眼は冷然と光っており、相手が視線をそらすまでは微動だもしなかった。五人、十人、十五人、と彼がこうしてつぎつぎに相手を見つめて行くうちに、室内は次第に静かになって来た。そして、しまいには、息づまるような沈默の中に石像のようにつっ立っている彼をかこんで、無数の眼が、あるものはおびえたように、あるものは強いて冷笑するように、またあるものはあやしむように、光っているだけであった。
 次郎はその様子を見すますと、おもむろに言った。
「君らが何のためにそんなひどいことを言うのか、僕にはよくわかっている。むろん、君らの中には、僕が処罰をおそれて卑怯になったと、本気にそう思って怒っているものもいるだろう。そういう人に対しては、今は何も言わない。僕が何を考えているかは、これからの僕自身の行動で説明するより外にはないからだ。また君らの中には、べつに深い考えもなく、お調子にのって面白半分に野次《やじ》をとばしているものもいるだろう。僕はそういう人に対しては何も言いたくない。僕はそういう人を軽蔑するだけだ。ただ僕は、僕をストライキの邪魔者だと思って僕に対抗している一部の諸君に対しては一言いっておきたいことがあるんだ。」
 彼はそう言って、馬田をはじめ、その一派の有力な生徒たちの顔をつぎつぎに見まわした。
 誰も彼をまともに見かえすものがない。
「僕は昨日まで諸君のまえで暴力を否定して来たが、――」
 と、彼の沈痛な声が気味わるくみんなの鼓膜《こまく》をうった。
「もしも諸君が、今日も僕がそんなふうに考えており、そしてどんな場合にも僕が暴力を用いないと思ったら、それは見当ちがいだ。僕は、不条理を正すために、ほかに方法がないとすれば、暴力もまたやむを得ないと考えるようになったんだ。諸君は朝倉先生のためにストライキをやりたいと言っている。しかしそれは朝倉先生のためでなく却って朝倉先生に背くことになる。それは明らかに不条理だ。だから諸君が、あくまで諸君の主張を押し通そうとするなら、僕は諸君に対して暴力をもってのぞむよりほかない。僕は諸君と血闘をすることも辞しないつもりだ。僕は、実をいうと、子供のころから暴力によって僕の意志を貫いて来た。そして朝倉先生の教えをうけて以来、それを心から恥じていたんだ。しかし最近、――そうだ、つい昨日からのことだが、僕はそれがすべての場合恥ずべきことではないという気がして来たんだ。僕の今の気持では、僕は暴力に訴えて諸君と戦うことに何の矛盾も感じてはいない。僕はいつまでも口先で諸君と争っていることが面倒くさくなって来たんだ。どうだ、もうこのへんで、最後の手段に訴えて朝倉先生の問題にけりをつけようではないか。……念のために言って置くが、僕はひとりだ。これは僕ひとりで決心したことだからね。しかし、僕ひとりだからといって遠慮してもらっては困る。僕の相手は何人あっても構《かま》わないんだ。」
 次郎の見幕《けんまく》に圧倒されて、馬田一派はおたがいに顔を見あうことさえ出来なかった。
「どうだ、馬田!」
 と、次郎は真正面から馬田をにらみつけ、
「先ず君の決心をきこう。」
 馬田は顔をひきつらせた。そしてやっとのこと、
「ふふん。」と、あざけるように天井を見た。
「卑怯者!」
 次郎は一|喝《かつ》して、つかつかと馬田に近づいた。動揺が波のように室内を流れた。
「よせ!」
 そう叫んで次郎をうしろから羽がいじめにしたものがあった。それは新賀だった。同時に梅本、田上、大山などの四五名が、次郎のまえに立ちふさがっていた。大山の満月のような顔には、その時、どこかとぼけたようなところがあった。それは眼玉をぱちくりさせていたからであったらしい。
「とにかく本田の言うように一応解決しようではないか。本田が暴力に訴えることのよしあしは別として、言っていることは正しいし、おたがいに約束もしたことなんだから。」
 新賀が次郎を羽がいじめにしたままで言った。誰も何とも言わない。
「どうだ、みんな不賛成か。」
 新賀がもう一度うながした。
「賛成!」
 梅本と田上がほとんど同時に呼んだ。
「よかろう。」
 ちょっとおくれて大山が間のぬけたように言った。つづいて方々から賛成の声がきこえた。
 ストライキ問題は、こうして次郎のほとんど脅迫ともいえるような態度で、強引に片づけられてしまった。そしてそのあとは野次一つとばず、熱のさめたあとの変につかれた気分で、朝倉先生送別の方法が議せられたが、それは、校友会からおくる規定の餞別《せんべつ》のほかに、特に生徒一人あたり一円ずつを醵出《きょしゅつ》して何か記念品をおくること、送別式後、校友会委員を中心に有志の生徒を加え、他の先生をまじえないで送別会を開くこと、会場は校外の適当な場所で、出来れば川上の実乗院を選ぶこと、等であった。
 川上の実乗院というのは、町から一里半ほど北方の、谷川にそった景色のいい真言宗の寺であるが、そこは、もう七八年もまえ、前々校長の時代に彼らの先輩が大ストライキをやった時、食糧その他の必要品を用意して十日以上も立てこもったという、中学生にとっては特別因縁のある寺なのである。
 実乗院のことを言いだしたのは馬田であった。次郎は、馬田の未練さに腹も立ち、情なくも思ったが、どうせ朝倉先生は、生徒だけでやる送別会に顔を出されるはずがない、ことに会場が曰くつきの実乗院であってみればなおさらのことだ、と思ったので、強いて反対もせず、すべてを成行きに任していたのであった。
 とにかく、こうして朝倉先生の問題に関するかぎり、校友会の委員会は、その日を最後にして沈默することになり、四人の代表が校長室に出はいりすることも全くなくなった。花山校長は、無論それで大助かりだったし、県当局としても、自分たちのもくろんだ父兄会のききめがあったものとして非常に喜んだ。もっとも、血書撤回が実現しなかったのが、まだいくらか不安の種になって残っており、本田父子に対する疑惑は少しも解消しなかった。しかし、大勢がこうなった以上、大したことはあるまいということで、血書は握りつぶしの肚をきめ、ただ朝倉教諭退職発令の直後を学校の内外で十分警戒しようということになったのである。
 もっとも、西山教頭と配属将校とは、校長、県当局ほど楽観的ではなかった。二人に言わせると、すべては生徒たちの「戦術」であった。生徒たちは何か重大な方針を決定しているが、事前にそれを妨害されるのをおそれて、わざと平穏を装っている。その証拠には、留任運動の急先鋒であった生徒たちの沈默にもかかわらず、何でもない生徒たちは却って以前よりざわついており、何となく不安らしい表情をしている、というのである。
 なるほど、そう疑って見れば見られないこともなかった。というのは、校友会の委員会が開かれなくなってからは、休み時間になると、校庭といわず、廊下といわず、あちらこちらに十人二十人と集まって何か話しあっており、先生の姿が近づくと急に散らばったり、だまりこんでしまって変に白い眼で先生の通りすぎるのを見送ったり、また中には、頓狂な声を出してみんなを笑わせたりすることが多かったし、授業時間中でも、どたばたと廊下をあるく生徒の足音が頻繁《ひんぱん》にきこえ、どの教室でも、生徒たちは茶化したような眼付をして先生の顔をのぞき、平気で私語する、といったようなふうになって来たからである。
 一般の生徒の中には、委員会の腑甲斐《ふがい》なさを真剣になって怒っているものもあった。血書の効果を一種の好奇心をもって期待していたのが、駄目だと知って緊張感を失い、急にだらけた気分になったものもあった。また中には、問題がどう片づこうと、そんなことには大した興味を持たず、ともかくもこの騒ぎで、学校や先生を馬鹿にしてもいい時節が到来したような気になり、むやみとふざけたまねをするものもあった。
 こうしたいろいろの種類の生徒たちの間に、共通の話題になったのは次郎のことであった。
「本田は軟化した。自分で血書を書いておきながら、県庁で父兄会があってからは、一所懸命でみんなをなだめにかかったそうだ。」
 そういう噂が誰いうともなく下級生の間にまで伝わって来た。それだけならまだよかった。
「本田には恋人がある。彼が血書を書いたのも、その恋人に自分の勇気のあるところを見せたかったからだそうだ。」
「その恋人というのが気の弱い女で、この頃では本田が退学されそうだというので、悲観しているらしい。本田が軟化したのもそのためだそうだ。」
「いや、そんなはずはない。その女は本田の親類だが、いつも本田の顔を見るのもきらいだと言っているそうだから、本田が退学されたって悲観するはずがない。」
「しかし、とにかく、本田の態度がその女に動かされていることだけはたしからしい。」
「あるいはそうかも知れん。いやに考えこんだり、気狂いのように人にくってかかったり、意見がぐらぐら変ったりするところは、全く変だ。」
「けしからん奴だ。制裁してやれ。」
「そのうち、きっと何かはじまるだろう。」
 噂は、こうして尾鰭《おひれ》をつけ、それが生徒たちのざわめきに輪をかけることになって来たのだった。
 こうした噂は、むろん次郎の耳にもはいらないわけはなかった。彼はそれが馬田一派の宣伝だと思うと、無性に腹が立った。しかし今は何もかも朝倉先生のために我慢する気で
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