つぶり、何か唱えながら、両手を組みあわして、ふるんだってさ。そのうちに、僕たちの学校でもそれがはじまるだろう。師範学校ではもうはじめたっていうから。」
 三人は笑いながら流れに飛びこんだ。水は浅かった。深いところで腰の辺までしかなかった。それでも清冽《せいれつ》な水と白砂の感触は、学校での今日の不快な印象を洗い流すのに十分役に立った。
 次郎は何度も水にもぐり、息のつづくかぎり流れに身を任せた。彼は、そんなことをくりかえしながら、ひとりでめずらしく人生哲学めいたことを考えていた。しばらくぶりで、彼は、彼が兄の恭一や大沢といっしょに筑後川の上流をさまよって以来、彼の心を支配しがちであった「無計画の計画」とか、「摂理」とかいう言葉を思い出していたのである。
 彼はまた、春月亭の内儀《おかみ》に侮辱されて、人間の道義というものに絶望しかけていたとき、朝倉先生にきいたミケラシゼロの話を思いおこしていた。苔むした大理石の中に「擒《とりこ》にされていた」女神の像を、鑿《のみ》をふるって「救い出し」た芸術家の心は、清冽な水や白砂と共に彼の気持を次第に落ちつけて行くらしかった。
「おうい、本田ア。」
 彼が水から首をもたげると、新賀が大声で彼を呼んでいるのがきこえた。次郎は、その時、水飼場から百メートル以上も下流にいたのである。
 見ると水飼場の岩には、俊亮がふんどし一つになって立っており、こちらを向いてにこにこ笑っている。
 次郎はちょっとあっけにとられた。そして急いで流れをさかのぼりかけたが、もうその時には、俊亮もざぶりと水に飛びこんでいた。
「父さん、どうしたんです。」
 近づくと、次郎がたずねた。
「県庁に行ってかえりがけだよ。お前たちが泳いでいるのを見つけたもんだから、つい父さんも泳いでみたくなってね。」
 俊亮はそのふっくらした真白なからだを、胸まで水にひたして答えた。
「県庁で何があったんです?」
「お前たちのことで呼び出されたのさ。」
「僕たちのことで? 県庁に?」
 次郎だけでなく、新賀も梅本も眼を見はった。
「きょうはお前のおかげで、私も重要な父兄の一人になったよ。呼び出されたのは二十名ばかりだったがね。」
 俊亮は笑いながら、県庁での「懇談《こんだん》」の様子をかくさず話してきかした。ただ、血書撤回のことで課長との間にとりかわした問答については、あまりくわしいことは言わなかった。
「県庁の方では、私からお前によく話して、血書を撤回させるようにしてもらいたい、と言っていたんだが、それはもうお前ひとりの自由にはなるまいし、第一、撤回するのがいいことか、わるいことか、私には見当がつかなかったので、いい加減に答えて置いたよ。」
 そう言ったきりだった。
 話をきいていて、新賀と梅本とがすぐ心配になり出したのは次郎のこれからの立場だった。二人は俊亮のような父を持っている次郎の幸福を内心うらやみながらも、次郎が血書を書いた本人だということを、そんな席上で平気で発表してしまった俊亮に対して、何か不平らしいものを感じないではいられなかったのである。次郎は二人とはまるでちがったことを考えていた。彼は何よりも県庁のやり方を卑劣だと思った。それがむやみに腹立たしく、さっきからどうなりおさまりかけていた権力に対する反抗心が、それでまたむくむくと頭をもたげ出していたのだった。
 俊亮は、しじゅう次郎の様子に注意しながら話していたが、話し終ると、これで何もかもすんだ、というような顔をして言った。
「今日は風がないので県庁の二階も暑かったよ。しかし、やっとせいせいした。やはり水はいいね。」
 次郎も、新賀も、梅本も水にひたったまま、むっつりしていた。水面にならんだ四つの顔がただ眼だけを動かしている。
 しばらくして、新賀が何かふと思いついたように梅本に言った。
「血書は、こうなると、やはりおとなしく撤回した方がいいんじゃないかね。どうせもう役には立たたないし、……」
「そうだ。僕も今そんなことを考えていたところだ。本田からは言い出しにくいだろうから、僕たち二人でみんなに相談してみよう。」
 すると次郎が、
「僕は不賛成だ。」
 と、おこったように言って、俊亮の顔を見た。
 俊亮は、しかし、三人の言葉を聞いていなかったかのように、急に水から上半身をあらわし、
「おっ、少し冷えすぎたようだ。次郎はもっとあびて行くかね。父さんは先に帰るよ。」
 そう言ってさっさと水を出た。
 次郎は、新賀と梅本の顔を見て、ちょっとためらったふうだったが、すぐ、
「僕、さきに失敬するよ。」
 新賀も、梅本も、何か意味ありげに、大きくうなずいた。
 間もなく俊亮と次郎とはならんで土手をあるいていた。水を出たばかりで汗は出なかったが、顔にあたる空気はいやに熱かった。
 歩きながら、今度は次郎が、きょう学校での会合の様子を話し出した。彼の調子はかなり興奮していた。俊亮は、しかし、「うん、うん」とかろくあいづちを打つだけだった。西山教頭と曾根少佐とが委員会の席に乗りこんで来たことを話した時には、
「ほう、そうか。やっぱり配属将校がね。」
 と、ちょっと興味をひかれたようなふうだったが、そのあとは、またうん、うんと答えるだけで、次郎にはまるで張合がなかった。
 それでも、話してしまったら何か言ってくれるだろうと、次郎は期待していた。しかし俊亮は、
「先生二人を置き去りにするなんて、お前たちも心臓が強いね。」
 と、笑ったきりだった。
 次郎はとうとうたまりかねたように言った。
「配属将校が生徒をおどかしたり、県庁が父兄をおどかしたりするの、ほって置いてもいいんですか。」
「放っておいていけなければ、どうするんだい。」
 次郎は、さすがに、自分が主唱してストライキをやるんだ、とは言いかねた。
 ざくざくと砂をふむ靴音だけがしばらくつづき、二人はもうそろそろ汗をかきはじめていた。すると、俊亮がだしぬけに言った。
「お前は、きょうは一本立ちが出来なかったようだね。」
 次郎は何のことだかわからないで、父の横顔を仰いだ。
「きょうは、お前たちが学校の門を出て来るのを県庁の二階から見ていたんだよ。」
 次郎は、新賀と梅本とに左右から支えられ、泣きづらをして校門を出た時の自分の姿を想像して、顔があがらなかった。
 すると、しばらくしてまた俊亮が、
「一本立ちの出来ない人間が血書を書くなんて、少し出すぎたことだったね。」
 俊亮の言葉の調子には、少しも冗談めいたところがなかった。次郎は何か恐怖に似たものをさえ感じたのだった。
「しかし、何ごとにせよ、精一ぱいにやってみるのはいいことだ。そうしているうちに、だんだんとほんとうに一本立ちの出来る人間になれるだろう。きょうはまあよかったよ。」
 俊亮は、そう言って急に柔らいだ調子になり、
「それはそうと、お前は小さい頃、父さんとはじめて水泳をやった時のことを覚えているのかい。」
「覚えています。」
 五つの時、里子から帰って、まだちっとも家に落ちつかないでいた自分を、父が大川に水泳につれて行ってくれた時の喜びは、次郎にとって忘れようとしても忘れられない記憶だった。それは彼に、曲りなりにも、家庭に希望を抱かせた最初の機会だったのである。
(しかし、父は、なんで、だしぬけにそんなことを自分にたずねるのだろう。)
 彼は、ふしぎそうに、もう一度父の顔を仰いだ。
「あれからもう十二三年にもなるだろうが、おまえといっしょに水を浴びたのは、あれ以来きょうがはじめてじゃないかね。」
 なるほど考えてみるとはじめてである。次郎は、しかし、そんなことを言う父がいよいよふしぎでならなかった。
「実は、きょう、県庁の二階からおまえのしおれきった姿を見て、妙におまえのことが気になり、心配しながら帰って来ていたんだ。すると、水飼場の近くで、水に頭をつっこんで泳いでいる人がある。顔をあげたのを見るとおまえだ。私は、その時、どうしたのか、まるで忘れていた十二三年まえのことをふいと思い出してね。それで、つい私も飛びこんでみたくなったんだ。」
 次郎は、しみじみとした父の愛情が全身にしみとおるのを感じた。
「二人がいっしょに水泳をやるということが、きょうは妙に運命みたように私には感じられて来たよ。十二三年まえ、おまえがお浜のところからむりやりにつれもどされた時、それからきょう、――たった二度だが、それがふしぎにお前がしょんぼりしている時、ばかりだったのでね。」
 いつもの俊亮だと、そんなことを言うときには、少くとも微笑ぐらいはもらすのであったが、きょうはあくまでも生真面目《きまじめ》な顔をしている。それが次郎を一層しんみりさせ、これまで経験したことのない愛情の重みを彼に感じさせた。
 彼はだまって父について歩くよりほかなかった。
 土手をおりて鶏舎がすぐまえに見え出したころ、俊亮がまた思い出したように言った。
「それはそうと、もうむだ玉をうつのはよした方がいいね。むだ玉は血書だけで沢山だ。時代はどうせ行くところまで行くだろうし、おまえたちが今じたばたしたところで、どうにもなるものではないからね。」
 次郎は、理窟を言えば何か言えるような気がした。しかし、ただだまってうなずいた。父の愛情が今は理窟をぬきにして、彼にすべてを納得《なっとく》させたのである。
 彼のその日の日記には、しかし、つぎの文句が記されていた。
「――父はいつも愛情をとおして道理を説き、道理の埒内《らちない》で愛情を表現することを忘れない。しかし、わが子の安全を希《ねが》うのが現としての情であるかぎり、時として父の説く道理にも、いくらかのゆがみがないとは限らない。もし父の言うように、時代に反抗する一切の努力がむだ玉だとするならば、朝倉先生もまたむだ玉をうたれたことになるのではないか。」

    九 二つの敵

 次郎は、この一週間ばかり、考えぶかくすごして来た。
 血書撤回のことは、すぐその翌日、新賀と梅本とによって校友会の委員会に持ち出されたが、わけなく否決された。ストライキ派が、それを撤回されてはストライキの口実がなくなると思っているところへ、反対派の一人が、「血書をひっこめたら、われわれの朝倉先生に対する気持までひっこめたことになるんだ。」とどなったので、ほとんど問題にならなかったのである。
 それでも、新賀と梅本とは、決をとるまで、しきりに次郎のこれからの危険な立場を述べたてて賛成を求めた。これには、ストライキ反対派の中に同感の意を表したものも多少あった。しかし、次郎本人が、
「血書は私情で書いたものではない。それを私情でひっこめることは絶対に不賛成だ。」
 と、強く言いきったので、新賀も梅本も、結局あきらめるより仕方がなかったのである。
 血書撤回の問題がかたづくと、すぐまたストライキ問題がむしかえされた。馬田一派に言わせると、
「少数の父兄が県庁に呼び出されたということは、すでに少数の生徒が犠牲者に予定されているということを意味する。だから、一日も早く、全校生徒で責任を負うような態勢をととのえなければならない。」
 というのであった。これに対し、次郎はきっとなって言った。
「われわれは、たった今、血書撤回を否決したばかりではないか。血書を撤回しないかぎり、ストライキをやらないというわれわれの約束は、決して消滅してはいないはずだ。」
 言ってしまって、彼自身、何か詭弁《きべん》を弄したような気がして、あぶなく苦笑するところだった。しかし相手はそれでわけなく沈默してしまい、その代りに生徒大会の問題をもち出した。その理由とするところは、「とにかく今度の問題は、もう校友会の委員だけできめるには、あまりにも大きすぎる。こうした問題について、一度も生徒大会を開かないのは不都合だ。」
 という、ごくぼんやりしたことだった。しかし、その底意が、生徒大会の興奮した空気をストライキに導こうとするにあったことは、明らかであった。それに対しても、次郎は、
「そんなことは有害無益だ。」
 と、言って正面から反対した
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