見もありましょうが、さきほどあなたご自身でもお認めのとおり、血書とか血判とかいうことは、とにかくおだやかでありませんし、それに第一、知事さんを相手にしているという点が、中学生らしくない、非常にませたやり方で、背後に何か思想的な関係がありはしないか、というような疑問も、自然、そういうところから生じて来るのではないかと思います。で、いかがでしょう。あの陳情書だけは、ともかくも一応徹回させるように、おたがいに尽力してみましては。」
「承知いたしました。」
 と、俊亮は案外あっさりと答えたが、
「ただ、さきほど課長さんにも申上げましたように、それにはある限度がありますので、その点はあらかじめご承知おき願います。」
「その限度とおっしゃる意味は?」
「実は、せがれ自身、今では、血書を書いたのを多少恥じているようにも見うけますので、本人だけなら、むしろ喜んで撤回する気になるかも知れません。しかし、あの血書は、もうせがれ一人のものではなくなっていますし、自分が書いたから自分の勝手になる、というものではありません。ことに、沢山の生徒が血判までやっているとしますと、今さら撤回するなどとせがれが言い出しましたら、どういう結果になりますか、そこいらのことは、せがれ自身に慎重に考えさせたいと思います。」
「なるほど、ご令息としては、そりゃ、すいぶん言い出しにくいことでしょう。しかし、そこを押しきってもらうことが、今の場合必要なことですし、またそれがご令息の責任ではないか、と思いますが……」
 俊亮は、けげんそうに相手の顔を見た。が、すぐ、
「せがれは多分、結果をますます悪い方に導くような事はしたがらないだろうと思います。そこはせがれの良心を信じて下すってもいいと思いますが。」
 今度は平尾の父がけげんそうな眼をした。そして何か言おうとしたが、ちょうどその時、道一つへだてた中学校の正門のあたりから、にわかに、さわがしいどなり声や、やけに声をはりあげた校歌の合唱がきこえて来た。
 みんなの注意はその方にひかれた。中には席を立って窓から下を見おろすものもあった。花山校長もその一人だったが、その顔付は変に硬《こわ》ばって血の気がなかった。
 生徒たちは、しかし、計画的に集団行動に出ているようなふうには思えなかった。彼らは校門を出ると次第にばらばらになりながら、いかにも興奮した調子でお互いに何か言いあっていた。
 少しおくれて、次郎が左右から二人の生徒に扶《たす》けられるようにして出て来るのが、俊亮の眼にとまった。俊亮は席についたまま顔だけを窓の方にねじむけていたが、校門がちょうどその窓から見とおしになっていたので、それが偶然よく見えたのである。彼も、さすがにはっとしたように、椅子から立ち上って窓ぎわに行った。そして、腕組をして三人の様子を見まもりながら、何度も首をかしげた。

    八 水泳

「もうこうなれば、朝倉先生の辞職は一日も早く発表される方がいいと思うよ。」
 次郎は、まだ興奮からさめきらない眼で、じっと空を見つめながら言った。
 一心橋から二丁ほど北に行ったところに、とくべつ大きい黒松が根をはっており、その根の一部をそぎおとして、流れの方に斜めに道がついているが、そこは馬の水飼場《みずかいば》になっている。次郎たちは、その水飼場のおり口の熊笹の上に仰向けにねころんで、何か思い出しては、ぽつりぽつりと口をききあっていた。やはり次郎がまん中で、新賀が右から、梅本が左から、たえず次郎の顔をのぞくようにしている。
「そうだ。そうなると、やつらのストライキの口実もなくなるんだ。」
 梅本が言うと、
「しかし、しゃくだなあ。」
 と、新賀は両手の拳を力一ぱい空につきあげた。
 三人はそれっきり默りこんだ。
 松の梢《こずえ》にかすかに風が鳴っているのが、雲の音のように遠くきこえる。次郎は相変らず空の一点に眼をこらしていたが、
「ほんとうは、僕、ストライキがやってみたくなったんだよ。」
 新賀と梅本とは、何かにはじかれたように、半ば身をおこして次郎を見た。
 次郎は、すると、まぶしそうに眼をつぶった。が、またすぐ空を見ながら、ひとりごとのように、
「しかし、朝倉先生の辞令が出ないうちには、それがやれない。やると、先生の顔に泥をぬることになるからね。」
 新賀も梅本も、ただ顔を見合わせただけだった。
「先生に早くこの土地を去ってもらうといいんだがなあ。」
「本田!」
 と、新賀は次郎の胸に手をあててゆすぶりながら、
「君は、いったい何を考えているんだい。」
「ストライキをやる時期と方法だよ。」
「何のためのストライキだ。」
「学校浄化のためさ。朝倉先生の問題はもうすんだ。それとは関係なしにやるんだ。問題がまるでちがって来たんだから。」
「おい!」
 と新賀は怒ったように、
「君はとうとう馬田に負けたな。」
「馬田に負けた? どうして?」
 次郎はやにわにからだを起し、新賀と向きあった。
「君は、馬田が、留任運動をきっかけにストライキをやって、校長やほかの先生を排斥しようと言った時、それを不純だといって攻撃したんじゃないか。」
「むろんさ。それがどうしたんだ。」
「攻撃しておいて、今度は君がその不純なことをやろうというのか。」
「ちがう。留任運動とは関係がないんだ。僕、さっきそう言ったんじゃないか。」
「そんなこと通用せんよ。現に関係があるんだから。」
「ない。僕の気持には、それは全然ないんだ。」
「君の気持にはなくっても、留任運動に失敗したあとですぐストライキをやれば、誰だって関係があると思うよ。」
「そんなことわかってるよ。だから僕はストライキの時期と方法をどうしたらいいか、それを考えているんだ。僕は朝倉先生を見送って学校が一応落ちついてからにしたいと思ってる。もう間もなく夏休みだから、どうせ来学期さ。ゆっくり考えてやるんだ。やる以上は根強くやりたいからね。」
 そう言って次郎は微笑した。つめたい微笑だった。その微笑の底には、彼の幼ないころの血が、永いあいだの彼の努力を裏切って無気味に甦《よみがえ》っていた。正木の庭の筑山のかげで、若い地鶏が老レグホンに戦いをいどむのをじっと見つめていた時の、あの熱いとも冷めたいとも知れない血が。
「しかし、本田――」
 といつの間にか、からだをにじらせ二人の間に顔をつき出していた梅本が言った。
「それでは君の暴力否定の主張はどうなるんだ。」
「それもこれから考えてみるさ。」
「これから考えてみる?」
「うむ、ゆっくり考えてみるよ。」
「今さら、何を考えるんだ。」
「僕には、ストライキが暴力でない場合もありそうな気がするんだ。少くとも、やむを得ない、いや、必要な暴力というものが、この世の中にはありそうに思える。」
「そりゃあ、あるだろう。警官が泥棒をふん縛《しば》るんだって、そうだからね。しかし、学校を浄化するためにストライキに訴えるのは無茶だよ。」
「それ以外に方法がなくても、無茶かね。」
「ほかに方法がない事があるものか。第一、今の校長はストライキを必要とするほどの相手ではないぜ。」
 次郎は苦笑しながら、
「僕は花山校長なんかを相手にしているんではない。あんなの、ほって置いたって、そのうちひとりでに消えてなくなるんだ。僕は、むしろ校長はかわいそうだとさえ思っている。」
「じゃあ、相手は誰だい。」
「誰でもない、学校さ。」
「学校?」
「強いていえば、教頭と配属将校に代表されている現在の学校だ。」
 新賀が眼を光らした。そして穴のあくほど次郎の顔を見つめていたが、
「君は、きょうのことがそれほど無念だったのか。」
「うむ、無念だったよ。」
「それを女々《めめ》しいとは思わんのか。」
「女々しい? なぜだ。」
「教頭も配属将校も、君の将来を棒にふって争うほどの人間ではない。そんなのに捉われるのは女々しいよ。」
「君は、僕があの二人を相手にストライキをやろうとしているとでも思っているのか。」
「本心はそうだろう。」
「馬鹿いえ。相手はあくまで学校だ。いや、学校というよりか、あの二人を通じて学校全体を脅迫している大きな権力だ。その権力から僕たちは学校を救わなければならないんだ。」
 新賀を見つめている次郎の眼は、何かにつかれたように動かなかった。
「なあんだ、そんなことを考えていたのか。」
 と、新賀は茶化すように笑って、
「よせ。そんな夢みたようなことを言ったって仕方がない。みんなに気狂いあつかいにされるだけだ。」
「君自身でも僕を気狂いあつかいにするのか。」
「するよ。」
 新賀はまた笑った。すると、次郎はそっぽを向きながら、
「ふん。君は軍人志望だからね。」
「おい!」新賀は顔を真赤にして、
「そんなことを言うのは侮辱だぜ。」
「侮辱に値するものは遠慮なく侮辱するし、攻撃に値するものは堂々と攻撃するさ。僕はもうそうきめたんだ。」
 次郎は、しかし、何か苦しそうだった。彼は新賀から眼をそらして梅本を見たが、梅本の眼がじっと自分を見つめているのにでっくわすと、急にまた熊笹の上に仰向けにひっくりかえり、大空に向ってふうと大きな息を吐いた。
「君、そんなことを言って朝倉先生にすまないとは思わないのか。それでは白鳥会の精神はどうなるんだ。」
 梅本が泣くように言った。次郎は眼をつぶって答えない。が、しばらして、
「すまない気もするよ。しかし、戦いはやはり必要だ。戦わなければ朝倉先生の抱《いだ》いていられる信念や思想も護れないからね。そして戦う以上はストライキぐらいやってもいいように思うんだ。朝倉先生は、右翼の暴力に対してストライキを左翼の暴力だと言って非難されていたが、しかし、ガンヂーの非協力や、絶食は、先生も認めていられたようだ。僕はそれと同じ意味でストライキをやりたいと思っているんだ。」
 言うことが大げさすぎる、と、新賀はそう思ったが、今度は笑わなかった。何か笑えないものを次郎の気持に感じたのである。
 梅本は心配そうに首を何度もかしげていた。それに気づくと、次郎はまた起きあがって、
「僕の言うこと変なんかね。」
「変じゃないけれど、少し考えすぎているよ。」
「考えすぎている? しかし、学校が不正に屈服するか否かの問題だぜ。いや正義が世の中に行われるか否かの問題だぜ。僕たちは、正義のために、権力に対して反省を要求しなければならないんだ。だから――」
「よし、わかった。」と、新賀がどなるように、次郎の言葉をさえぎった。
「君の言っている理窟はよくわかった。しかし、いざストライキという場合、みんなが君のいうような理窟で動くと思うかね。いや君自身、教頭や配属将校に対する感情をぬきにして、純粋にそうした道理で動けると思うかね。」
 次郎は、はっとしたように眼を見はった。
 そう言われると、頬骨の高い、三角形の眼をした西山教頭の顔と、蟇《がま》にひげを生やしたような曾根少佐の顔とが、いつも憎々しく自分の眼にちらついている。二人の顔を思い出さないでは、自分はさっきから一言も口をきいていなかったのではないか。――
 彼はひとりでに眼を伏せた。彼の膝の周囲には熊笹の葉が入りみだれ、へしまげられている。その葉が、彼が息をするごとにかすかな音を立てて動いていた。そしてその二つ三つが、間をおいてつぎつぎにぴんとはね起きた。彼は見るともなくそれを見ていたが、ふいに顔を上げて、
「僕、何だかわけがわからなくなった。もっとゆっくり考えてみるよ。」
「うむ、僕ももっと考えてみる。」
 新賀が言うと、梅本も、
「そうだ。いそいできめることはない。おたがいによく考えてみるんだね。」
 新賀は、次郎の気をひくように、
「どうだい、水をあびようか。」
 三人はすぐ立ちあがった。次郎は裸になりながら、
「みそぎでもやるようだね。」
 と、皮肉に笑った。すると梅本が、
「みそぎはまあいいが、みたまふり[#「みたまふり」に傍点]というのは実際滑稽だそうだ。」
「みたまふり[#「みたまふり」に傍点]って何だい。」
「みそぎのあとか先かに、静坐をして眼を
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