、私には何も言わないものですから……」
そう言って、彼はちょっと首をかしげたが、
「しかし、とにかく、これは何とかして早くおさまりをつけなければなりますまい。私も及ばずながら出来るだけのことはいたします。きょう帰りましたら、早速せがれに十分言いきかせまして、少くとも私のせがれだけは、責任をもってこの運動から手をひかせましょう。」
「どうか、ぜひ、そんな工合におねがいいたします。みなさんがめいめいにそんな工合にしていただくと、あるいはひとりでに解決するのではないかとも存じますので……」
馬田の父はまた首をかしげた。そして、じろりと花山校長の顔を見たあと、みんなを見まわし、皮肉な調子で言った。
「どうでしょう、みなさん。さきほどからの課長のお言葉では、どうやら、きょう集まった私ども父兄の肩に全責任がかかっていそうに見えますが、そのつもりでご相談いたすことにいたしましては。」
「いや、そういうわけでは……」
課長はあわてて言葉をはさんだが、馬田の父は、それに頓着《とんちゃく》せず、
「しかし、それにしましても、学校の方で、この事件について、これまでどんなふうに生徒を指導していただいたか、そねをくわしく伺っておきませんと、工合がわるいと存じますが……」
父兄の中には大きくうなずいたものも一二名あったが、大多数は何か気まずそうに視線をおとしていた。俊亮は相変らず默然と眼をとじたままである。
「ごもっともで、ごもっともで――」
と、花山校長は半《なか》ば腰をうかすようにして、
「実は、そのことにつきましては、生徒を集めまして、私からとくと訓戒する手筈にいたしておりますが、まだ、ちょうどよい機会がありませんので……」
「機会がないと仰しゃいますと?」
「実は、県ご当局との打合わせや何かで……」
「すると、生徒の方はまだ放ってあるというわけですね。」
「いや、四人の代表とは毎日会っておりますので、その四人を通じて、私の考えはほかの生徒たちにも伝わっておるはずでございます。」
「校長としてはそれで十分だと仰しゃるのですね。」
「いや、そういうわけではありません。しかし、今のところ、多数の生徒を集めたりしますと、それが却って悪い結果にならないとも限りませんので。……これは実は県ご当局からのご注意もありましたことで。」
「しかし、生徒の方では勝手に集まっているだろうと思いますが、どうでしょう。」
「はい、それは、……校友会の委員だけでは、いつも自由に集まれるようになっておりますので。」
「その集まりにも、校長さんはまだ一度もお顔をお見せになっておりませんのでしょうか。」
「それも実は、県当局のご意見で、一先ずほかの教師が出て、懇談的に生徒の考えをきいてみよう、ということになっておりますようなわけで……」
父兄たちは、にが笑いをおしかくすのに骨が折れるらしかった。俊亮も、さすがに眼を見ひらいて、あきれたように校長の顔を見た。平尾の父は眼鏡をはずして眼をこすっており、馬田の父は憤然として課長の顔を見た。すると課長が言った。
「そのことについては、事件の性質上、この場合、配属将校にご苦労をお願いするのが一番適切ではないかと考えまして、実は西山教頭とお二人で、十分説得していただくようにお頼みしてあるのです。多分、きょうあたり、お二人でその席に顔を出されたのではないかと存じますが。」
この時、よれよれの浴衣に古ぼけた袴といういでたちではあるが、何となく気品のある眼鼻立ちをした白髯《はくぜん》の老人が、だしぬけに立ち上って言った。
「私は田上と申す者で、五年級にお世話になっている田上一郎の祖父でございます。先程からだんだんお話を承りまして、きょうのお集まりのご趣旨は、もう十分わかりましたことですし、この上は学校と父兄とよく協力いたしまして、それぞれの立場で、出来るだけのことをいたすよりほかないと存じます。それにつきまして、私は平尾さんにちょっとお伺いしておきたいのですが、さきほどあなたのお言葉で、急先鋒になっている数名の生徒があって、それが何か思想的な背景をもって動いているというように承ったのでございますが、その数名の生徒の中に、私の孫が加わっているというようなことはありますまいか。もしご存じでしたら、ご遠慮なくそう言っていただきたいのですが。」
「それは、さっき馬田さんにも申しました通り……」
「なるほど、ご令息が名前を秘密になさるということも、一応うなずけないことはありません。しかし、私の孫もご令息と同様、校友会の総務とかに選ばれていますし、自然、何かのことがお耳にはいっているのではないかと存じますが……」
「いや、いっこう。」
「はっきり言うのが気の毒だとか、或は、万一ちがっていたらあとが面倒だ、とかいうようなことで、仰しゃっていただかないのではありますまいね。」
「いいえ、決してそんなわけでは……」
「こういう場合には、多少疑わしいことでありましても、おたがいに見たまま聞いたままを、ざっくばらんに話しあってみる方が、却ってよろしいかと存じますが。」
「ごもっともです、実は、それで、私も私の知っている限りのことを申し上げたようなわけで……」
田上老人はまだ納得しかねるといった顔付をして、立ったままでいる。
すると俊亮が、今までとじていた眼を見ひらいて、微笑しながら言った。
「田上さん、そのことなら、あなたのお孫さんは恐らくご心配ありますまい。何でしたら、私、よくたしかめた上で、お知らせ申上げてもいいのですが。」
「あなたが? 失礼ですが、あなたはどなたで……」
と、田上老人は自分のまえの名簿をひきよせた。
「本田ですが……」
「ああ、本田さん。……すると、何ですか、あなたはこの件について何かくわしいことをご存じのお方で?」
「くわしいというほどのことは存じていませんが、平尾さんのおっしゃった急先鋒のうち、一人だけよく存じていますので。」
「ほう。」
と、田上老人は、眼をかがやかした。しかし、今度はその名前を発表せよとは言わない。みんなはさっきから一心に俊亮の顔を見つめている。
俊亮はにこにこしながら、
「その一人というのは私のせがれで、実は血書を書いた本人です。」
「ほう。」
田上老人はまたほうと言った。そして自分がまだ立ったままでいたのに気がついたらしく、いそいで腰をおろしたが、視線は俊亮に注いだままであった。みんなの視線も動かなかった。石のような沈默の中で、俊亮だけがあたりまえの息をしている。
「血書を書くなんて、どうもなま臭くて、私もそれを知りました時は、あまりいい気持はいたしませんでしたが、しかし、せがれにとりましては、それが精一ぱいの良心的な仕事だったらしく思われましたので、むりにやぶいて捨てろとも言いかねたのです。その血書がもとで、各方面に大変なご心配をおかけするようなことになりまして、私といたしましては、ちょっと意外にも感じ恐縮もいたしているわけです。」
俊亮は、しかし、心から恐縮しているような様子には見えなかった。
父兄たちの視線がつぎつぎに俊亮をはなれて課長と校長に注がれた。二人は、その時、頬をすれすれによせて、何かささやきあっていたが、しばらくして、課長が言った。
「本田さん、よく思いきっておっしゃっていただきました。父兄の方から進んでそういうことを打ちあけていただくということは、決して生徒の不利にはならないと存じます。その点につきましては、県といたしましても、学校といたしましても、十分考慮いたしまして、すべてを処置して行く考えでございますから、どうか御安心を願います。」
俊亮は苦笑しながら、
「私はべつに思いきってお話しいたしたわけでもなく、また、お話しいたしましたことが、せがれの不利になるとか有利になるとか、そんなことを考えていたわけでもありませんが……」
「いや、お気持はよくわかっています。」
と、課長はひとりでしきりにうなずいた。そして両手を鼻の先でもみながら、しばらく眼をおとしていたが、ふと考えついたように、
「で、いかがでしょう。本田さん。私は、この事件をおだやかに解決するには、ともかくもあの血書を撤回してもらわなければならないと思いますが、ご令息によくお話し下すって、そういう方向に導いていただくわけにはまいりますまいか。」
「それは私にはうけあいかねます。」
俊亮の言葉は、みんなをはっとさせたほど、はっきりしていた。
「むろん、課長さんのお言葉は間違いなくせがれに伝えるつもりではいますが。」
「お伝え下さるだけでなく、あなたから説得していただくというわけには参りませんか。」
「ご希望であれば説得もいたしましょう。しかし、それには限度があります。せがれの良心を眠らせるような説得は私には出来かねますので。」
「すると、あなた自身、血書を撤回することが、ご令息の良心に背くとでもお考えでしょうか。」
「いや、必ずしもそうだとは考えていません。しかし、こう申しては何ですが、今度の問題につきましては、せがれは、最初からあくまでも良心的に動いているように思えますし、その点では、親の私でさえ頭がさがるような気がいたしますので、私は、最後まで、せがれ自身の良心に訴えて行動させたいと思っているのです。むろん、まだ中学生のことで、いろいろ小さな点で思慮の足りないところもありましょう。事実、本人もあとで後悔したりしたこともあるようです。しかし根本の筋道さえ誤っていなければ、小さな過ちは却って反省の機会になっていいことだと思いますので、あまり立ち入ったことは言わない方針です。」
課長は校長と顔を見合わせた。うしろにいた警察と憲兵隊の二人は、何かささやきあいながら、名簿と俊亮の顔とを何度も見くらべている。父兄たちの表情はまちまちで、ある者は心配そうに俊亮の顔をのぞき、ある君は急に腕組みをして居すまいを正し、またある者は自分の顔をかくすようにして警察と憲兵隊の二人を見た。
しばらく重い沈默がつづいたあと、課長は少し興奮した調子で言った。
「ご家庭での教育のご方針については、私共から立ち入ってとやかく申上げる筋ではありませんが、今度の問題について、ご令息が根本の筋道を誤っていられないとお考えになるのは、どういうものでしょうか。先ほど私から委《くわ》しく申上げましたような事情がおわかり下されば、そうは考えられないと存じますが……」
「私は、せがれが朝倉先生をお慕い申上げるのは当然だと思いますし、またその気持に少しも濁ったところはないと信じておりますので……」
「しかし、それは朝倉教諭がりっぱな教育者であるということを前提にされてのことでしょう。」
「むろんそうです。私は、朝倉先生ほどの教育者は、今の日本には全く珍らしいとさえ考えているのです。」
「すると、私が教諭の人物について申上げたことは、嘘だとお考えでしょうか。」
俊亮はまた苦笑しながら、
「あなたが故意に嘘をおっしゃったとは考えていません。判断のちがいだと思っているのです。」
「教諭が失言したというのは、たしかな事実ですが、それについてはどうお考えですか。」
「失言というお言葉が、実は、私には腑《ふ》におちないのですが……」
「すると教諭の言ったことは正しいとお考えですね。」
「極めて正しい警世の言葉だと思っています。」
「警世のお言葉ですって?」
「そうです。国民が自分の判断力をねむらせて、権力に追随する危険を戒めた、警世の言葉だと思っているのです。」
「その奥に反軍思想があるとはお考えになりませんか。」
「そうは考えません。反暴力思想があるとは考えていますが。」
憲兵隊員が県の属官に耳うちした。すると属官がまた課長に耳うちした。課長は上気した顔をしてそれをきいていたが、二三度かるくうなずいたあと、何か決心がつかないらしく、じっと眼をおとして考えこんだ。すると平尾の父が、
「本田さん、いかがでしょう――」
と、気づまりな空気をほぐすように、いかにもわざとらしい、くだけた調子で言葉をはさんだ。
「問題の根本の見方については、いろいろ意
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