選び出されたのか、という、ちょっときわどい質問が出たが、これに対しては、校長は案外まごつきもせず、むしろそうした質問を期待して答弁を用意してでもいたかのように、いくぶん調子づいて答えた。
「それは県ご当局とも十分お打合わせいたしました結果、学業の成績も相当で、校内で何かの役割をもっている生徒の父兄の中から、各方面の有力な方々を、というような標準でお願いいたしましたような次第です。むろん皆さんのほかにもそういうお方がまだいられると思いますが、あまり多人数になりましてもどうかと存じましたし、なお急いでお集まり願う必要もありましたので、だいたい数を二十名程度にして、なるべく近くにお住まいの方々だけにご案内を差上げましたようなわけで……」
 俊亮もその席につらなった一人だったが、彼はどう考えても自分が社会的に有力な地位にある人間だとは思えなかった。馬田の父も来ていた。彼は県会議員だったので、その点では有力な代表者であったかも知れない。しかし、学業成績のよい生徒の父兄であるとは、恐らく彼自身でも考えていなかったろう。列席した父兄の名簿が謄写版《とうしゃばん》ずりにして渡されていたが、その中には、平尾、田上、新賀、梅本、大山、そのほか、よかれあしかれ教師側の注目をひいている、おもだった生徒の父兄の名がならんでいた。そしてどの父兄の顔にも困惑の色がうかんでおり、中には、「ただ今の校長先生のお言葉の通りですと、ほかの方のことは存じませんが、私だけは、どの点から考えましても、この席につらなる資格がなさそうに思えますが、或はどなたかのまちがいではありますまいか。」と、真実不思議そうな顔をしてたずねたものもあった。みんなの中で、校長の言ったすべての条件を完全に具備している人があったとすれば、それは恐らく平尾の父だけだったろう。彼は弁護士で、次期の最も有力な市長候補だと噂されている人だったのである。
 校長の説明のあとで、まだ三十歳には間のありそうな、色の白い、いかにも才子らしい顔をした学務課長が立ちあがって言った。
「実は、先生の留任運動というようなことは、本来なら学校だけで処理していただくべき性質のものですが、何しろ、生徒からの願書が校長さんだけにあてたのでなく、知事宛にもなっていますし、なお朝倉教諭退職の理由については、県として直接皆さんの御|諒解《りょうかい》を得ておく方がいい、という事情もありますので、私共もこの席に顔を出さしていただくことになったわけであります。何だか変な会合だとお感じの方もおありのことと存じますが、その点あらかじめお含《ふく》みを願っておきます。」
 そういう前置をして、課長は、最初のうちはいかにも周囲をははかるように声をひそめ、あとではむしろ煽動演説でもやっているように興奮した調子で、県が朝倉教諭に辞表提出を要求するにいたった事情を説明したが、その事情というのは、要するに教諭の「失言」であり、「教育者として慎重を欠いた時局批判」であり、「自由主義的反軍思想」であり、そして「生徒を反国家思想に導くおそれのある教育態度」であった。そして最後に次のようなことを言って腰をおろした。「かようなわけで、朝倉教諭には全然同情の余地がなく、退職はすでに決定的のことになって居りまして、どんな運動も絶対に無効であります。そうした事情を、みなさんが父兄としての立場から、各家庭でとくと生徒にお話し下さることが、この際何よりも大切ではないかと存じます。それでも生徒の方で運動をやめないといたしますと、それは朝倉教諭の思想にかぶれた思想運動と認めるほかありません。そうなりましては、事は極めて重大でありまして、時節がら、むろん学校だけでは処置が出来なくなりますし、或いは思わぬ犠牲者を生徒の中から多数出すような結果にならないとも限らないのであります。さきほどの校長のお言葉によりますと、皆さんは校内で何かの役割をもっている生徒の父兄であられるとのことでしたが、そういう生徒は、自然それだけ他の生徒に対する影響力も大きいわけでありますから、特に皆さんのお骨折をお願いしたいと存するのであります。もし皆さんのお骨折によりまして、一般の父兄の方々には少しも心配をおかけしないで事件が解決する、というふうにでもなりますと、まことに結構であります。県といたしましては、実は、内々そういうことを皆さんにご期待申上げて、お集まりを願ったようなわけでありますから、どうかそのおつもりで、ご懇談をお願いいたしたいと存じます。」
 父兄の中からは、しばらく誰も発言するものがなかった。「他の生徒に対する影響力」という課長の言葉は、いい意味にも悪い意味にもとれ、自分の子供の成績がさほどでもないのを知っている父兄にとっては、それがいよいよ不安の種になるのだった。
「平尾さん、いかがでしょう。あなたのご令息は成績はいつも一番であられるそうですし、校友会の総務もやっていられると承っていますが、あなたのような方から最初に何かご意見を出していただけば、他の方のご参考にもなると存じますが……」
 課長が、しばらくして、意味ありげに平尾の父をうながした。すると、平尾の父は、
「いやあ――」
 と、両手で白髪まじりの頭をうしろになで、ちょっと馬田の父の顔を見た。それから、かけていた金ぶち眼鏡をはずし、指先でしきりに眼のくぼをこすりながら、いかにも言いしぶるように、とぎれとぎれに言った。
「私のせがれは、今度の問題では生徒代表の一人に加わって、校長先生にいろいろご無理なことをお願いにあがっているようで、まことに申しわけない次弟です。しかし、本人が私に話しましたところによりますと、これは決して本人自ら進んでやっていることではないようでありまして、……率直に申上げますと、実は本人は最初から今度の事には絶対反対だったのですが、校友会の総務におされている関係上、むりやりに表面に立たされているというようなわけで、……こう申しますと、何だかいいわけがましくなりますが、私は何もそれで責任をのがれようというのではありません。本人の意志であろうとなかろうと、一旦本人が代表たることを引受けました以上、それだけの責任は取らせなければなるまいかと、それは私も覚悟いたしているのです。」
 彼はそこまで言って眼をこするのをやめ、眼鏡をとりあげてそれをかけると、一わたりみんなの顔を見まわした。そして今度は急に声に力を入れて、
「ただ、私がせがれのことを申上げますのは、今度の問題がよほど巧妙に仕組まれていて、恐らくたいていの生徒は自分でも気づかないうちに、とんでもないところに引きずって行かれるのではないかと、それを心配いたすからです。元来、私のせがれは、……親の口からこんなことを申してはお耳ざわりかと存じますが、どちらかというと万事につけ思慮深い方で、今度の問題でも、先ほど申しますとおり、最初から慎重に考えて反対をとなえたのですが、どうもその反対を押しとおすわけにはいかない事情がある。と申しますのは、留任運動の急先鋒、……それは朝倉先生と何か思想的に深い関係をもっている四五名の生徒だということですが……その急先鋒の生徒たちが表向きに主張していることが至極もっともらしい主張で、誰も正面から反対の出来ないようなことらしいのです。つまり、自分たちは自分たちの真情を披瀝《ひれき》するだけで、なにも不穏な行動に出ようとしているのではない。むしろストライキなどのような、不穏な行動に出るのを防ぐために、血書を書き血判を求めたのだ。もしそれにも反対する生徒があったら、その生徒こそ却《かえ》って全生徒を不穏な行動にかり立てる者ではないか、というのだそうです。なるほど血書や血判などということは、おだやかではないにしても、生徒の分をこえた行動だとは必ずしもいえない、青年としては、そのぐらいのことをしないでは、本気で留任運動をやったような気がしないだろう、とも考えられますし、それもいけないとなると、自然、もっと悪い方法で感情のはけ口を求める、というようなことにもなるかと存じます。そんなようなわけで、私のせがれも、正面から反対も出来ず、つい代表の一人に加わったというようなわけですが、……ところで、それでは、ストライキのような不穏な行動がそれで実際にくいとめられそうかというと、どうもそうではないらしい。それどころか、血書や血判までして願っているのに、それを容《い》れてくれない、おめおめと引っこんでおれるか、といったような気分が次第に濃厚になって来るらしいのです。私の考えるところでは、ここが非常にかんじんな点で、どうも最初からそうした青年心理をねらって、血書とか血判とかいうことが仕組まれているのではないか、という気がいたすのです。せがれが毎日学校で生徒の動きを見て来ての話によりますと、急先鋒の生徒たちは表立った会合の席ではあくまでストライキに反対をとなえながら、蔭ではひとりびとり[#「ひとりびとり」は底本では「ひとびとり」]の生徒をつかまえて悲憤|慷慨《こうがい》したり、ひそひそとストライキの時期や方法などを話したりしているそうですが、そういうことをききますと、いよいよ私の想像があたっているように思えてならないのです。とにかく、今度の問題は私の見るところでは、決して単純な性質のものではありません。大多数の生徒は、純真な留任運動だと信じてやっているのかも知れませんが、中心になって動いている数名の生徒たちは、決してそうではないと存じます。何でも、その生徒たちは頭もいいし、読書力もあり、いろんな方面の思想にもふれているそうですが、そのうえに、背後から糸をひいている人物もあるらしく想像されますので、われわれ父兄といたしましても、うっかりして居れないかと存じます。」
 平尾の父は言い終って眼鏡をはずし、謄写刷《とうしゃずり》の父兄名簿を眼のまえすれすれに近づけて、左右に視線を動かした。すると、馬田の父が、
「ちょっとお伺いいたしますが――」
 と、いんぎんな、しかしどこかにとげのある調子でたずねた。
「お話の通りですと、中心になって動いている生徒はごく少数のようですが、もしおさしつかえなかったら、その名前をはっきり言っていただきたいのですが。」
「名前までは、実は、私、たしかめて居りませんので……」
 と、平尾の父はいかにも当惑したように頭をかいた。
「ご令息のお口から、それをおききにはなりませんでしたか。」
「私も、実は、その名前がはっきりすればいいと思いまして、一度たずねてみたこともありますが、せがれの方では、それだけは親にも言いたくないと申すものですから、しいてはたずねないことにしています。あの年輩では、こういうことには妙に義理固いものでして、これは、みなさんにもご経験のあることだと存じますが……ははは。」
 馬田の父は笑わなかった。ほかの父兄たちも、にこりともしないで默りこんでいる。何だか平尾の父の笑声がにげ場を失って、戸まどいしているという感じだった。
「みなさん、いかがでしょう――」
 と、課長がとりなすように、
「ただ今の平尾さんのお話でよほど真相がはっきりして来たようですが、みなさんからも、ご存じの事実なり、ご判断なりをご腹蔵なくお聞かせ願えれば、なお一層はっきりすると存じますが。」
 みんなはおたがいに顔を見合わせただけで、やはり默っている。俊亮は、最初から、腕組をして眼をつぶり、少しのぞけり加減に椅子の背にもたれていたが、この時、ちょっと眼をひらいて課長を見た。しかし、すぐまた眼をつぶってしまった。
「馬田さん、何か……」
 課長はこびるような笑顔をして、馬田の父を見た。
「いや、私はきょうは何もしらないで参ったようなわけで。……さきほどからいろいろと承って、内々おどろいている次第です。」
「朝倉教諭のことが問題になっていたことは、むろんご存じだったろうと思いますが。……」
「ええ、それは非公式にいろんな方面からきいてはいました。しかし生徒がそのために血書を書いたり、血判をしたりしたことなんか、全く初耳です。せがれは、そんなことについては
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